本多敏行はアニメ業界の大ベテランである。 本多氏のキャリアは 1969 年に『巨人の星』で始まりました。以来、『ドラえもん』などの多くの人気シリーズに携わってきた。

アニメーターとしての仕事以外にも、本多氏は業界の著名人たちと一緒に働いて、さまざまな活動に携わってきました。 楠部大吉郎と大塚康生の伝説的なスタジオAプロダクションのメンバーで、後にスタジオジブリのメンバーとなる宮崎駿と近藤喜文の隣で働いた。 組合活動にも積極的に参加し、1970年代のアニメ業界で非常に活躍した。

聞き手: ジョワイエ・ルド

協力: トーデット、ワツキ・マテオ、セラキ・ディミトリ

日本語編集: ワツキ・マテオ、アントワーヌ・ジョバール、FAR

このインタビューは、全文を無料でご覧いただけます。なお、このような記事を今後も出版できるように、ご支援をお願い申し上げます。

Q. 本多さんのスタジオはエクラ・アニマルですね。その前はアニマル屋だったと思いますが、、、

本多. やはりフランス語が好きなので、エクラ・アニマルにしました。エクラはフランス語で「輝き」という意味でしょう?私は昔『パン三世』があったのですが、今ではフランスでルペンさんと一緒なんですよ。何か関係があるのかしら。(笑)

Q. スタジオに入社するため、バーベルの持ち上げチャレンジがあったそうです。それは本当の話ですか?

本多. アニメーターになるためには、鉛筆を軽く感じる方がいいと思うので、当時、40キロのバーベルを上げられない人は社員にしませんでした。絵が得意な人もダメでした。(笑)やっぱり体力が重要ですね。

Q. ああ、わかりました。(笑)では、本多さんのキャリアについて質問させていただきたいと思います。本多さんは1969年から活動していますね。最初のスタジオのAプロダクションにどうやって入社したのですか?

本多. 私は高校を卒業して、公務員になる予定でしたが試験に怒りました。その後、ぶらぶらしていたら、高校の先生がシンエイ動画、当時Aプロという会社の社長楠部さんのお父さんに紹介をしてくれました。それで入社したわけです。コネでの入社ですね。悔しいことです。だから絵はあまり描けないんですが、コネで入社しました。

Q. 絵を描くことはどのように学びましたか。師匠などはいましたか。

本多. Aプロには大塚康生さんや宮崎駿さんなど、絵を教えてくれる先輩がいたんですけど、描いたものは全部捨てていましたね。(笑)

Q. では、厳しい先輩でしたね?

本多. そうですけど、本当に楽しい会社でした。当時は珍しく男女差別はなかったですよ。アニメーターたちは皆面白いし、いたずら好きな人が多かったので非常に楽しかったです。良い先輩の元で学んで、勉強できたということですね。

Q. それから労働組合に入会したと聞いたのですが、これについても質問させていただきたいと思います。

本多. 労働組合は映画放送産業労働組合と言いたいと思っていたのですが、個人関連の名前が付けられました。最初は政治には全く興味がなかったけど、先輩が誘ってくれて、自分は政治的な興味が全くないのに入会しました。共産党員である小林多喜二さんが有名な作家で、彼は拷問を受けて殺されましたけど、その朗読が行われたときに、自分は小林さんにはなれないからと言ったら、「いや、組合はそういうもんじゃないよ」と言われて、何となく入ってしまった。

そこで、私は要するにプロスペクトの仕事をしていました。フリーのアニメーターを組合に誘い込み、その時のメンバーには金田伊功くんなどがいました。親しい仲間もいて、ほとんどが宴会でした。酒好きだったので。当時はのんびりしていましたね。

Q. 労働組合といえば『つるのすごもり』という作品は聞いたことがありますが、それはちょっと紹介していただけませんか?

本多. あれは確か高倉輝豊さんの原作です。当時、市ヶ谷にある自衛隊の駐屯地の近くに小さなマンションを借りて、組合の仲間が集まる場所として使っていました。その時、三島由紀夫さんが割腹自殺をした事件があったので、1975年ぐらいのことです。要するに、組合員たちが仕事が終わった後に集まって楽しんでいたという感じです。

Q. 現在、アニメーターの労働条件についての議論が活発化しています。組合への参加が今後の課題の一部として有効な解決策と考えられるでしょうか?

本多. 当時は自分たちが小さかったんですよ。弱小プロダクションがたくさん存在していました。例えば、賃上げや給料の増額を求めて、弱小プロダクションのオーナーに交渉しても、彼らもお金がないことを承知していたので、結局はうまくいかないことが多かったです。それで、我々は組合としての立場を強調し、大手代理店やテレビ局などと協力しようとしました。

ただ、これからはどうなるかは知らないですけど、日本でも何らかの理由から、成果主義が台頭してきて、特に1980年代から、アニメ業界でもフリーターや非正規雇用の増加が見られて、労働組合の組織力が弱まりました。それが、アニメーターたちが団結するきっかけとなって、組織化が進むこととなったのかもしれません。不思議なんですけど、その頃からアニメが人気を集め始めた。

Q. 本多さんのおかげで、近藤喜文さんが日本共産党に入党したという噂は本当ですか?

本多. それは分からないですね。(笑) 当時、労働組合みたいな左翼的な活動は、共産党や社会党が行っていました。都知事は亮吉さんという方で、社会党と共産党が連合して、副知事を選んだ。それで、多くの人が関与していた可能性があります。

近ちゃんはAプロでやってて、その後、スタジオジブリで『耳をすませば』を監督しました。近ちゃんはすごく絵の上手い人で、天才だったね。

Q. あにまる屋に近藤さんも入れようと思ったのでしょうか。

本多. 近ちゃんはシンエイ動画の後、宮崎さんたちと一緒に日本アニメーションに移っていたんです。我々が作ったあにまる屋は、みんなが次々と去った後のことだったんです。当時は亜細亜堂という会社があって、日本アニメーターグループ、スタジオコロリドがあった私達だけ残ったんです。もう人がいなくて「お前やれ」と言われて、『ドラえもん』や『かいぶつくん』をやりました。さすがにギャグ漫画ばかりをやって、「違うものやりたいな」という気分になって、酒飲みで相談して社⻑に「独⽴していいですか」と⾔った。楠部さんは優しい人で、若い時に東映動画から独立しましたね。で、「男は一度そういう勝負をする時があるでしょう」と言って「仕事を与えるから、頑張って」と、家まで紹介してくれた。

ちなみに、楠部さんは私の田舎の先輩なんです。木村圭市郎さんも同じ田舎の先輩ですよ。

Q. 木村さんは本当にヤクザだったのでしょうか。

本多. いいえ、とても優しいんだけど、顔はどう見てもそうしか見えませんです。(笑)

Q. 梶原一騎の顔をしてましたね。

本多. ふさわしいだ!(笑) 彼の体型はまったく予想外で、まるでプロレスラーのようで、金のネックレスとかをつけて胸を張って歩いている様子は一見目立ちます。しかし、本当に優しい人でした。

Q. 木村さんの思い出をもう少し聞かせていただけますか。

本多. ⽊村さんの奥さんが⼤泉でスナックをやってたんですね。「飲みに行こう」と思ったらあそこに行くんですけど、入ったら奥さんが、「あんた、表から⼊っちゃ駄目よ。裏にも入れるんだから困るわよ」と言われたんです。そんな感じでした。(笑)

Q. 『パンダコパンダ』 についてもお伺いしたいです。その制作の雰囲気や、高畑監督と宮崎さんとの制作について教えていただけますか?

本多. 『パンダコパンダ』 は特別なプロジェクトでした。当初、宮崎さんは 『長くつ下のピッピ』 をアニメ化する予定だったのですけど、途中で日中国交が回復し、田中角栄首相と周恩来首相が握手する歴史的瞬間が訪れたことから、突然東宝から「パンダの話を作れ」と、制作することになりました。

Q. この制作は楽しかったですか?

本多. 楽しかったけど、結構厳しかったです。私は主人公の美々ちゃんが卵焼きを作るシーンを担当しました。実際のことを知っておかないと駄目だと先輩から聞いていたので、絵を描いて持って行ったのですけど、宮崎さんはその絵を一瞥すると捨ててしまったんです(笑)。何回も続けて描いたのですが、途中で諦めかけました。卵をまとめてフライパンに流し入れて、たくさんの卵が貯まってしまいましたけど、何が悪いのか分からなかったのです。多分、油の跳ね方がもう少しランダムであるべきだと思ったのでしょうね。

昔は全てそういう教え方なんですよ。宮崎さんの先輩の大塚康生さんは『巨人の星』をやりましたね。私も参加しました。主人公の顔が燃えていて、下からライバルが出てくるようなシーンがあるんです。その上のセルを燃やしていくシーンがあって、その燃やし方が良くないと言われて、何度も何度も描き直すように言われました。でも、もう勘弁してくださいって言ったら、大塚さんがタバコを吸っているライターで動画に従っていたんです。

昔の先輩はそういう人ばっかりでした。あとは、当時はあまり何度も何度も見れないので、1回放送しちゃうと、再放送まではほとんどこれが最後になるかどうかもわからない状況だったんで、みんなの好き勝手なことやってるんですね。例えば、宮崎さんと大塚さんは、『ルパン三世』の中でお互いに似顔絵を描き合って遊んでいたそうです。例えば、ルパンが運転誤って、家の中に飛び込んじゃって、そこで宮崎さんがご飯を食べるとか。こんなことよくしました。

『天才バカボン』も同じでした。当時の先輩たちは楽しんで遊んでいました。そこでギャグを学んだり、その当時は動画から原画に合格する試験があったんです。三つの課題がありました。一つ目は少年が跳び箱を跳ぶ、二つ目は女の子が石を持ち上げる、そして三つ目は『ルパン三世』のガンアクションを自由に描く課題でした。ほとんどの人は二つ目か一つ目で挫折して、当時青木くんという天才だけが一つ目を何とかクリアしました。

私はこの二つ目のでは、女の子があんなに重いものを持ち上げられるとは想像できなかったよ。しょうがないから、少女が薬を飲んで石を持ち上げられるようにする描写をすることにした。これが⼤塚さんに受けてしまいまして、いきなり原画のチームに入りました。冗談が止まらない男という印象を与えたに違いない。(笑)こういう雰囲気でしたね。

Q. 後は、『ガンバの冒険』に参加されましたが、ガンバのスタッフは東映組中心ではなく、虫プロ組ですね。

本多. そうですね、『ガンバの冒険』は東映動画出身と虫プロ出身の方のコラボレーションで、虫プロの出崎統さんが監督で、東映動画の椛島義夫さんが作画監督を担当しました。つまり、虫プロと東映は伝統的に異なっていたのですが、この作品で初めて両方が結びついた感じです。

Q. 東映出身のスタッフと虫プロ出身のスタッフのアプローチの違いを感じましたか?

本多. 伝統には確かに違いがありました。たとえば、虫プロは漫画家の手塚治虫さんが設立した会社で、有名な『ジャングル大帝』で、その中に主人公が直立したまま走る場面があるんです。漫画的な描き方です。しかし、東映のスタッフはこれがアニメじゃないと考えていました。動きがリアリズムよりも漫画的であるといった視点の違いがありました。特に出崎さんは、宮崎さんとはあまり気が合わなかったです。宮崎さんが手塚先生のスタイルを馬鹿をしたから、それが裏でいろいろなことが起こしたようですね。(笑) 

私は手塚先生のサイン会の交通整理をしたことがあるので、彼の才能には驚かされました。とても描が上手い人です。

『ガンバの冒険』では、打ち合わせでアニメーターたちにどこをやりたいかを聞いていました。「ここやりたい」と言うと、意外とやらせてくれたんです。私は無謀にも出崎さんに冒頭のシーンをやらせてもらいました。

Q. AプロとTMSは長い間で協力して作品を制作しましたが、『ガンバの冒険』の後、このコラボレーションが終了したね。その理由は何でしょうか?

本多. 『ガンバの冒険』の後、確か『はじめ人間ギャートルズ』というアニメが制作されました。園山俊二さんの原作で、それが最後だったと気がします。

シンエイ動画の専務さんとTMSの社長さんは義兄弟でした。そして、TMSにいたプロデューサーは、シンエイ動画の社長の弟であったようです。しかしこの関係が、両社が別々に進むことを決定した一因になったと思います。でシンエイ動画が『ドラえもん』を作ったら⼤当たりしちゃったみたいなことだったりに記憶してますね。

Q. それなのに、TMSの『元祖天才バカボン』にはまたAプロ・シンエイ動画のアニメーターが参加されましたね。

本多. そうですね。この業界は少し異なっていましたね。「闇営業」という言葉がぴったり当てはまります。つまり、知り合いから頼まれると、アルバイトのように手伝ってしまうことがあります。みんな知り合いだから、頼まれれば手伝います。こういった活動を行いながら、名前は出さないでおこうというのが慣習のようになっていました。

Q. 例えば『草原の子テングリ』は、宮崎さんや小田部羊一さんとかが参加しているのに、名前が出てこないですね。それは同じことでしょうか?

本多. 元々私がAプロに入ったとき、宮崎さんたちはまだいなかったんです。まだ東映動画にいたんです。それから何年か経ってから、宮崎さん、高畑さん、小田部羊一さんがAプロに入ってきました。それからアニメの制作の傾向が少し変わり、クオリティの高いものを制作することが増えました。この三人のコンビが非常にうまく機能して、たとえば後に『アルプスの少女ハイジ』に高畑さん、宮崎さん、小田部さんが協力しました。彼らは非常に協力し合ってて、一緒にプロジェクトを推進して、非常に効果的なチームワークを持っていました。

Q. 『てんぐり』と『ハイジ』は似ているように感じますね。

本多. そうですね、『てんぐり』は雪印のプロモーション作品だと思います。大塚さんが初めて監督した作品だと記憶しています。宮崎さんはたくさんの原画を描いていたようです。当時のAプロがモンゴルづいてて、社長の楠部さんがジンギスカンが大好きで『蒼き狼』というパイロット作りました。馬がたくさん出てきて、「お前やれ」て言って、1カットが1週間ぐらいやって描きました。(笑)

Q. 大塚さんが『てんぐり』の監督になったきっかけは何でしょうか?

本多. 他の人が忙しかったのか。詳しくはわからないけど、大塚さんは何でもできる器用な人で、テレビシリーズもそのまま続いてるし、監督をやりたいという気持ちがあったじゃないですか。本当には絵を描く専門なんですけど、当時の幹部の考え方などが少しわかりにくいのですけども、結局、大塚さんが監督になることになりました。

Q. その頃、本多さんと福冨博さんとのコラボが『まんが世界昔話』で始まりました。お二人が友達になったきっかけはなんですか?

本多. 自分の方が一年早かったんです。二人とも酒が好きで、特に焼酎が気に入りでした。高円寺駅の近くには飲み屋が多かったから、よく飲み過ぎてしまった。(笑) 当時、私は高円寺で「まちゃん」と呼ばれていました。「まっちゃん」というのは千葉哲也先生の『のたり松太郎』のキャラクターで、私の風貌がそれに似ていたからです。今振り返ってみると、ごつくて暴れていたイメージで、「マーちゃん、マーちゃん」と呼ばれていました。

Q. 面白いエピソードですね。当時も『おれは鉄兵』のアニメに参加しましたね。日本アニメーションとの制作はいかがでしたか?

本多. 当時、私はシンエイ動画に所属していて、TMSを離れて大きな下請け会社になりました。で、日本アニメーションから『おれは鉄兵』を受けました。この作品は、野球アニメ『巨人の星』で知られる長浜さんが監督を務め、大塚さんがサポートを担当しました。当時、大塚さんたちはいつもポーカーなどをして遊んでいて、話をするといつも「1カットは1ギャグ」だと言っていました。めちゃくちゃだったね。(笑)とんでもないでしょう。

Q. 本多さんの作画監督デビューでしたか?

本多. いいえ、それよりも後で、私は水島新司先生の『一球さん』という野球漫画を担当しました。水島先生は野球が大好きで、最初に打ち合わせしたとき、中学生野球の話をしたばかりで打ち合わせをしてなかった。水島先生はタバコをたくさん吸う人でした。当時、漫画家たちはアニメと漫画は別の物だから、自由にしてという考え方がありました。今は漫画家さんは結構厳しいですけど。

Q. それから、『ドラえもん』のテレビシリーズは非常に長くて、初期は毎日1話数が放送されました。それは大変だったんじゃないですか?

本多. 私は最初、『ドラえもん』の最初の映画を制作した後、次に『怪物くん』という作品をやりました。『ドラえもん』のテレビシリーズにあまり参加しなかった。ペンネームで絵コンテを少しやりましたけど。

Q. 本多さんはいくつかの『ドラえもん』の劇場版に「レイアウト」でクレジットされましたね。

本多. そう、レイアウトを描きました。具体的には、劇場版用の全てのレイアウトを手がけた、つまり、この仕事を受けたこと自体が特別な仕事でした。

Q. レイアウトのすべてを担当されたという事ですね。

本多. はい、レイアウトのすべてをやりましたね。

Q. 鈴木信一さんと木上益治さんとも仲良くなりましたね。どのように会いましたか?飲み屋での出来事が関係しているのでしょうか?

本多. 『怪物くん』のテレビシリーズの制作中、劇場版やスペシャルエピソードが追加されて多忙で、1人で作業を終えるのが無理でした。なので、鈴木くんと木上くんに助けを求めました。3人チームでシリーズをやりました。木上くんは非常に優秀で、動画と原画の時間が短いし、すぐに作画監督としての役割を果たせる能力を持っていました。当時は「木上に描けない絵はない」というぐらい言われましたね。宮崎さんのように才能に溢れていると言われていました。

Q. 一緒にあにまる屋を作りましたね。

本多. それは酒好きな方が多かったのもあって、初代の社長の真田芳房さんも酒好きで、理想的な最期が肝硬変で亡くなったです。幸せな人生でした。彼のもとに、みんなが尊敬して集まる場所となって、私たちは「七人の侍」のように何もしなくても仕事が次々と舞い込んできて、毎日が宴会のように楽しい日々でした。

Q. あにまる屋は他の作品にも秘密裏に参加したことがあるのでしょうか?

本多. 当時、会社というよりも、みんながフリーのように集まっていた感じでした。たとえば、前に話した木上くんは、スタジオジブリに助手として行ったり、『AKIRA』の制作を手伝いに行ったりと、その優れたアニメーターにはたくさんの仕事のオファーがありました。みんながそれを受け入れることも多かったのですが、私たちが手掛けたのは、『おじゃまんが』というギャグアニメでした。それから、鈴木さんなども、日本アニメーションから声がかかって、『超人ロック』などを制作するように依頼されました。みんなが一本釣りされるように仕事をしていました。

あにまる屋は会社として作ったのは、『緑山高校の甲子園編』という野球ものでした。この作品は約40分ほどの長さで、これだけはみんなで一緒に作りました。初めてみんなでやろうということでしたね。後は、合作のアメリカの作品も多く手がけました。ディズニーやワーナーとのコラボレーションあって、『パワーパフガールズ』のオープニングとパイロット版も当社で制作しました。あんな風に当たるとは思わなかったなんですけどね。それから、スピルバーグ監督のプロジェクトもあったね。いろんなことをやってました。

ただし、アメリカのシステムは合理的で、日本の人たちからは考えられないなアプローチもありました。たとえば、制作中にミスが見つかったら、日本人はそのミスをどうにかしようとする傾向がありますが、アメリカのディレクターは、それを直すのは自分の仕事じゃないと考えます。(笑)前に台湾で一緒に仕事をした時に、巨大な会社があって、その会社内に野球チームがあって、そのチームと、日本人とアメリカ人と一緒に試合で、プロ野球で使われるような球場がありました。私はアメリカ人たちをそのままにしておいて、ホームランを打ったら「ベースボールモンスター」と呼ばれるようになってしまった。ある意味、それは楽しい思い出ですね。(笑)

Q. 台湾以外では、香港でも監督をしました。中国のアニメーションにどのように関与しましたか?

本多. それは台湾の知り合いが紹介してくれたのです。香港では非常に人気のある漫画で、当時、著作権の問題が複雑でした。元々の原作者の息子が同じ名前で漫画の連載を続けていた。でも版権は出版社が持っていた。たまたま、知り合いが紹介してくれて、映画自体は中国のハイ・ブラザーズが製作した。

私はそのときに中国へ行きましたよ。上海には有名な川があって、ビルもいろいろなものがあって、ある日、中国の若い夫婦が連れてやってきて、写真を撮ってくれと言われた。「え!?」と驚きましたね。当時まだあまり分からなかったけど1000⼈と写真撮ると⻑⽣きって⾔われて噂があります。「俺はアニメーター、カメラマンではない!」という気持ちが湧きました。(笑)

Q. あにまる屋は『ガンバとカワウソの冒険』にも参加しましたね。懐かしいと思ったんでしょうか?

本多. そうですね。あにまる屋はTMSから仕事を受けて、作画を担当しました。鈴木くんが中心にしていたと気がするけど。その仕事もTMSの大賀俊二監督と飲み屋で知り合って、何となくやることになちゃったね。アニメ業界では、飲み屋で仕事が進行することが多いです。(笑)

Q. 出崎監督がいなくて寂しいと思ったのですか?

本多. そうですね、出崎さんの作品ではありませんでした。でも大賀さんは出崎さんの弟子だったので関わったのだと思います。その大賀さんと鈴木くんが仲良くして、飲み屋で気軽に一杯飲んでいた感じでした。

Q. 本多さんが参加した作品の中で、一番好きなものは何ですか?

本多. 難しい質問ですね。実は、自分はアニメーションが特に好きじゃないし。(笑) でもフランスの作品をやったんですよ。C&Dというジャン・シャロパンの作品を指しているんですけど、ギャグっぽいの作品です。たしか『マニュ』と呼ばれていたんです。

Q. ジャン・シャロパンの作品に参加したのはどの機会でしたか?

本多. C&Dという会社は、TMSを辞めた人とジャンさんが組んで作った。そこから仕事を受けました。みんな知り合いだったんで、それでもう一つの作品である「Michel Vaillant」というレースものもやりました。

Q. 現在、ジャン・シャロパン監督は銀行で働いて、パナマペーパーズに関与したと言われています。

本多. 確か、ジャンさんは一度会ったんですけど、彼はジョン・レノンに似た人かなと思っていました。(笑)

Q. フランスに行ったことはありますか?

本多. フランスに行ったことはありません。現場は台湾だったんですね。

Q. じゃ、ジャン・シャロパンは台湾で会いましたか?それとも日本で?

本多.  確か、東京だったんです。知り合いに紹介された気がします。フランスは、料理は美味しいけど。(笑)

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