上妻晋作は日本で最も偉大なアクションアニメーターの一人です。 1970 年代後半にアニメ業界に参入して以来、上妻氏はアニメの歴史の中で最も重要な作品を参加して続けてきました。その中で、『銀河鉄道 999』では動画で、『うる星やつら』と『幽☆遊☆白書』では原画を務め、 近年は『呪術廻戦』などスタジオMAPPAの作品で原画としても活躍。40年以上にわたり、上妻氏は風変わりとする独特のスタイルを発展させてきました。

その上、伝説のアニメーター金田伊功の友人として、上妻氏には逸話が数多くある。 『ファイナルファンタジー』劇場版、および複数のファイナルファンタジーゲームの絵コンテを担当で、上妻氏はゲーム業界とアニメ業界の接触や 3DCGの初期の実験を目撃するという特権的な立場にありました。2023年8月に私たちが会ったときに話し合ったのは、これらすべてとそれ以上のことです。

聞き手: ワツキ・マテオ

協力: セラキ・ディミトリ

日本語編集: アイリーン、同心かりん、ワツキ・マテオ

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「それが金田さんと最初の初対面です」

Q:上妻さんに良ければ、金田伊功さん[注1]の話しから始めましょう。いつ頃から金田さんのお名前を意識してましたか?

上妻:そうですね、多分1980年だと思います。業界に入って一年経ったぐらいですね。友達が居たんですけど、その友達がスタジオナンバーワンと関係があって、彼に「来週放送するやつを観たほうがいいよ」と言われた。それは金田さんの『ずっこけナイトドンデラマンチャ』の回でした。それがきっかけですね。

Q:業界に入る前にどんなアニメを観ていたんですか?

上妻:僕は田舎の方だったので、あんまりリアルタイムの放送がなかったのです。だから、昔のアニメだったら『ど根性ガエル』しか見てないですね。あんまりアニメは少なかったんですよ。特撮ものは多くて、『ウルトラマン』とかはあったんですが、アニメ自体は観る機会があんまりなかった。『未来少年コナン』はNHKだったので観たんですけど、それ以外の記憶はあんまりいないんですよね。

Q:ではどうしてアニメーターになろうと思ったのですか?

上妻:僕は文章を書くのが好きなんです、絵以外に。だから誰かの下に付いて、出版に関する仕事というものになりたかった。で、僕は東京都で公務員になる予定だったんですけど、それになる以前にたまたま兄がこちらに住んでたんで、その時アニメ会社に求人広告を見つけたんですよね。それがきっかけです。

Q:えええー。完全にたまたまですね

上妻:そうですね。(笑)

Q: 大塚康生さん[注2]と同じではないですか? 大塚さんも公務員をやってて、たまたまアニメーターになったという流れです。

上妻:大塚さんは東映動画で、本当に運がよかったなーと感じがしますよね。

Q:上妻さんは最初から金田さんのファンではなかったら、業界に入って師匠とか先輩とかいましたか?

上妻:最初は玉沢動画社という会社に入って、師匠と言われるのならそこの動画チェックの女の人でしたね。その人が非常に上手な方で、東映動画の劇場作品とかオープニングとかをメインに動画をやられてる方なのです。線が美しかった。正直、こんなに綺麗な線は描けないと思いました、無理だと思いました、当時。

Q:結局できましたね、上妻さんは。

上妻:すぐ動画から原画を描かせたんですよ、3ヶ月ぐらいで。そこから実は結構早くフリーになっちゃったんですね。原画を描き始めて半年ぐらいでフリーになりました。十九歳の頃ですね。当時は友達がいて、もう多分「一人でやっていけるよ」みたいな感じも言われてしまって。(笑)で、そこからフリーとしていろんなスタジオを転々するようになりました。

Q:フリーの時は『銀河鉄道999』の動画をやりましたね。

上妻:そうですね。フリーでオー・プロダクションから仕事を取って、最初の仕事が劇場用の『銀河鉄道999』だったんですね。これはなんの作品か当時はまったく分からなくて、「紙が大きなー」ぐらいです。

Q:金田さん自身との出会いを聞かせてください。

上妻:金田さんとはね、最初の頃は友達になったのはナンバー・ワンに居た山下将仁くん[注3]ですよ。

Q:山下さんはどのような流れで出会いましたか?

上妻:僕の友達が彼と同じアパートに住んでまして、「上の階に実はまだ若いんだけど凄いのがいるよ」と言われて、紹介しようかと言って、連れてって会ったのが山下くんだったんです。正直、彼はずば抜けてない子だったのですぐ仲良くなりました。いつも一緒にいたんですけど、ある日夜になって「今金田さんスナックで飲んでいるからちょっと行ってみよう」っと。(笑)行って、会ったのが最初の初対面です。

Q:当時はナンバーワンに入ろうと思いましたか?

上妻:その時は思ってなかったんですよね。山下くんからナンバーワンの事情も聞いてたんで、ただナンバーワンの人たちと知り合いになるために来ました。ただ中でやろうという気にはなれなかった。

「金田さんは画作りから来ているんですよ」

Q:山下さんと一緒にスタジオOZを作りましたね。どうやって設立しましたか?

上妻:それは僕がフリーで、その時プロダクション・ルーズという会社があって、その会社でフリーで入ってた古川さんという方がいらしゃいまして、その人が「スタジオ作るから一緒にやらない」というのがきっかけでした。

Q:それはいつ頃だったのですか?

上妻:多分1981年か1982年だったと思います。

Q:『うる星やつら』の直前かな?

上妻:そうですね。で、その時にたまたまで山下くんが「一緒にやりたい」と言って、それで一緒に合流した感じでしたね。

Q:どこでありましたか?ナンバーワンの近くですか?

上妻:そうですね。その時は僕の住んでいるアパートはナンバーワンのすぐ近くだたんですね。ただ仕事場は西武池袋線の桜台で、江古田に近いところでした。ただ作ってたら、たまたま当時すぐ近くにスタジオグラビトンがあって、森山雄治さんのスタジオMINもあったんですよ、偶然にね。で、そこで交流が始まったというのもありましてね。

Q:ああ、分かりました。で、金田さんと山下さんはタイミングを決める時にストップウォッチを使っていなかったそうですが、それは本当ですか?

上妻:僕も使わないですけど。あれをやるのは絵コンテを描くときとか、どちらかというとそっちの方に近いですね。セリフのタイミングを決めるときとかですね。僕も最初はストップウォッチ使うようにと言われたんですけど、めんどくさいでやらなかったんです。(笑)それで、金田さんも使わないし、山下くんも使わない。結局みんなは使わないでそのまま通した。

Q:では上妻さんの場合は、金田さんの影響じゃなくて、初めからめんどくさいと思って使わなかったということですね。

上妻:そうですね。セリフのコマ数で大体の勘で理解して、間違いではなかったので、そのまま通したという感じですね。

Q:それを言われると、どうやって金田さんと上妻さんたちのタイミングがそんなに独特になったのでしょうか?

上妻:直接同行に聞いたことはないんですけど、金田さんは画作りから来ているんですよ。望月三起也さん[注4]が好きで、『ワイルド7』という漫画があって、この構図がものすごく影響与えているんです。実際本人にも聞いていますけど、すごい好きでした。ホルスターから銃を抜くシーンのカメラアングルとか、ああいうアングルはほとんど望月三起也さんから来ているんですよ。

Q:ええ、それは知りませんでした。金田さんの奥さんに会った時に、奥さんは実相寺監督[注5]の影響があると言いましたが。

上妻:やっぱり僕らの世代で『ウルトラセブン』の実相寺さんの影響を受けてない人はいないです。『ウルトラセブン』は絶大人気でシリアスな内容も含めて、やっぱり実相寺さんのアングルってその中でも極めていたんですよね。あれは庵野秀明さんも真似していますよ。あの世代で影響を受けていない人間はいないんですよ、本当に。

Q:OZの時代に上妻さんはよくカナメプロの作品に参加しましたね。それはやっぱり金田さんとのつながりのおかげですか?

上妻:カナメで仕事をするようになったのは葦プロダクションなんですよね。葦プロダクションの作品で『魔法のプリンセス ミンキー モモ』という作品がありまして、あれをやった経緯で、葦プロダクションからカナメに移動した人が多いんです。

Q:湯山監督(注6)以外はカナメプロダクションのいのまたさん(注7)とかが『魔法のプリンセス ミンキー モモ』に参加していなかったと思いますが。

上妻:そうですね、接点はないんですね。僕に接点があったのは湯山さんと演出の方だけでした。それで『プラレス三四郎』の時に結局誘われました。

Q:『ミンキー モモ』と言えば、わたなべひろしさんがいましたね。その時会いましたか?

上妻:わたなべさんはスタジオ・ライブの人だったのですね。ライブは江古田にあったんですけど、ライブの人たちと直接関わることは少なかったのです。当時芦田豊雄さん(注8)とも接点がなかった、ほとんど。ライブの人たちとは意外と距離はありましたね。

Q:カナメプロに戻ると、スタジオの雰囲気はいかがでしたか?みんな若かったでしょう。

上妻:それはよかったですよ、みんな本当に若かった。作画では、僕以外の年長者は影山さんぐらいしかいなかったんですかね。僕は最初カナメで仕事を始めたときは23歳ぐらいですけど、佐野くんも2歳下ぐらいです。いのまたさんだけは同世代ですね。本隊のみんなは若かったんですよね。

Q:上妻さんはカナメに机がありましたか?それともOZで仕事をしていましたか?

上妻:いや、その時はカナメでしていました。

Q:社員として、それともフリーとして?

上妻:フリーとしてです。

Q:カナメプロとはどこにありましたのか?

上妻:井の頭線での永福町だったんですね。あそこでコツンとあっただけです。(笑)当時は井の頭線にアニメ会社がなかったんで、珍しいだったんですね。ちなみにその時僕は会ってはいないんですけど、新房もいたんですよ。

Q:新房昭之監督[注9]のことですか?

上妻:ええ、佐野くんと同期なんです。佐野くんと二人一緒に住んでたんですよね。その時は知らなかったんですけど、後で新房と一緒に住み始めた時に「昔カナメにいた」という話を始めに聞いた。

「『バース』は絵コンテをいじるとかという意識ではない、フィルム作ってたらそういう風に動いちゃった」

Q:新房監督と『幽☆遊☆白書』[注10]のことも聞きたいと思いますが、それを後にしましょう。カナメと言えば『バース』[注11]ですね。『バース』について、絵コンテが二つあったという話しを聞きましたが、、、

上妻:うん、金田さんは自分でやりやすいように全部をいじちゃったですね。

Q:もともと『バース』の尺は60分だったんですよね。でも90分に伸ばした時に絵コンテは全部書き直したらしいですが。

上妻:そうですね。その話は聞いてます。結局シナリオもほとんど無視されたんじゃないのかな。だからあの時シナリオは武上さんだったと思うんですけど、「自分の名前出してくれるな」という経緯になってます。実際に金田さんが描いた絵コンテは元とは全然違うというか。(笑)そういう感じになってます。

Q:アニメーターも絵コンテを変えたんですね。

上妻:いや、あれは変えたんじゃなくて、流れでそうなったというだけです。(笑)変えようという意識じゃなくて、「膨らむ」という感じです。そんな絵コンテをいじるとかという意識ではない、フィルム作ってたらそういう風に動いちゃったというか、そんな感じですね。

Q:『バース』は動きに関しては勿論素晴らしいですが、キャラクターは、、、まぁ、アニメーターによって全然違うですね。それは金田さんの望む通りと思いますか、それとも、、、

上妻:金田さんはね、当時田村英樹さんの絵が一番気に入ってたんですね。で、金田さんは田村さんが描いた女の人がすきだったんです。(笑)だから出来ればそれをいじりたくないというところでやってたんですけど、他の女の子のキャラクターは、僕も描いたのも含めて、修正をちゃんと入っていました。

Q:当時はライバル的な関係があったそうですが。例えば金田さんと山下さんの間に、それとも上妻さんと山下さんの間とか、そういうことありましたか?仲良しですが、同時にライバルという感じです。

上妻:結局描くスタイルが違いすぎちゃって、なかったですね。似てるの感じであればあったかもしれないんですけど、結局も描く絵も全然違いました。でも金田さんに対しては山下くんはいろいろな気持ちがありましたみたいですよ。あの時は金田さんも勿論超一流としてすっごく世間出ていました、ただ山下くんも天才という取り上げ方で世間的では有名の男だったんで、金田さん大好きだけど山下くんに対する対抗意識も同時にありましたね。

Q:『バース』の現場のいい思い出とかがあったら聞かせてください。

上妻:いい思い出ですか。(笑)ろくでもない話しかしないんですけどね。

Q: いえ、いえ、どうぞ聞かせてください!

上妻:まぁ、田村さんも含めて僕も、みんな手が遅かったっていうか、時間かかったという部分もありました。山下君だけはサクサクあげる方なんですよね。スケジュール的な面では、彼が一番しっかりしてた。俺と田村さんがいつも遅れる、そんな感じですよね。その頃よく田村さんと一緒にプラプラしてたので、大体同時に遅れるっていう感じでしたよね。

ただほら、描くことにおいてはもう自分の好きなものははっきりしてるんで、他の人に影響されるとかそういうのは一切なかったですね。もう田村さんもその時は業界では有名でしたから。

Q: 田村さんはOZにいなかったでしょうね。

上妻:隣のMINにいたんです。北久保君とか森山さんと一緒にいたんですよ。

Q: 難しい質問かもしれませんが、『バース』は作画に関してではなく、作品としてはどう思いますか?

上妻:いや5分で眠くなります。(笑) 俺は最後まで見たことが一度もない。それぐらい物語としては単調で辛かったですね。

Q: 上妻さんのシーンは割りと初めのシーンですし、、、

上妻:だからまだ見られるけど、だんだん眠くなってくる。いくらアクションしてても、セリフもないし、物語がどう進んでるかはっきりわからない中で見てるとかなり辛いですよね。音響もスケジュール押してかなり厳しかった事態だったんで、音響もしっかりついてなかったんです。

Q: そうですね、そのところも気になりますね。

上妻:そうですね。金田さん自身は『バース』に関してはもう一回やりたいと言ってましたね。やっぱり後悔があったみたいです、いろいろ言われて。

Q: 金田さんの『バース』の漫画がすごくかっこよくて、アニメを見ると、まぁアニメもいいですけど、漫画と比べて足りない部分が。

上妻:そうです。自分では良いと思ってコンテを改変したんですけど、それに関していろいろ言われたこともある。僕と一緒にスクウェア・エニックスに行った時に金田さんがよく言ってたのがとにかくもう一回やりたいと。『バース』じゃなくてもう一回フィルムを作りたいと、それは言ってましたね。リベンジみたいなことを言ってました。それは常々。

Q: 僕の目線から見ると、リベンジ的な作品だったら『DOWN LOAD 南無阿弥陀仏は愛の詩』ですね。

上妻:『DOWN LOAD』に関しては僕もちらってやったんですけど、それは本当にお手伝いだけだったんです。あの時金田さんのデザインで野田さんが作監だったんですよ。で、りんさんは演出じゃないですか。この三人に共通してるのはめちゃくちゃ優しいんですよ。という業界で本当に一、二をに争うぐらい優しい方なんですよ、りんさんも野田さんも金田さんも。

その中に田中達之君とヤギーが入ってきたんですよ。金田さんから聞いたんですけど、ある事件があったんですよ。野田さんの修正を無視して、その修正を抜いて動画にしたという事件があったんですよ。「あれ誰がやらかしたんですかね」と聞いたら金田さんが「それヤギーだよ」と。なぜそうなったのかヤギーに聞いたんですよ。そしたら野田さんの女の子の修正が可愛くないから。宮崎さんの大塚さんに対する意見と同じじゃないですか。

で、『DOWN LOAD』のスタジオは一階に宗教法人があったらしくて、二人で夜中に忍び込んで、野田さんの修正を見て、動画に回したり、あと自分で動画やったりしたらしいんですよ。

Q: 田中さんと柳沼さんの『DOWN LOAD』の原画はすごく良かったけど、確かにそれはちょっと、、、

上妻:問題になったらしいんですよ。俺も噂で聞いてくるぐらいです。その時に、野田さんはいい人で怒らなかったんですけど、金田さん怒ったらしいんですよ。金田さんの実質師匠みたいな方なんで、ちょっとこれをはってなったらしいんです。そしたらりんさんがそれに関して不問にしたんですよ。野田さんはそれにショックを受けて、それ以来作画監督一切やらなくなったそうです。

「宮崎さんと金田さんが合うか、合わないかはあるじゃないですか」

Q: ええ〜。では、カナメの話に戻りましょう。『バース』の後はもちろん『幻夢戦記レダ』ですね。『バース』と比べていかがでしたか?

上妻:時期的に似てましたので、似たようなメンバーで延長してやってるみたいな感じがありましたよね。ただ当時のいのまたさんのキャラでやってますし、人気もあって描きやすさはありましたよね。僕が描いても似ないですけど。ただ描きやすかったですね。監督の湯山さんはもうその時何年もやってましたので、そういう面でのやりやすさっていうのはすごくありました。

Q: 『レダ』ではいのまたさん自身が絵コンテを描いたという噂を聞きましたが、、、

上妻:多分清書の形ではないかなと思いますね。湯山さんは大体自分で通して描く人なんで、もしかして共同作業として楽しくやってもらいたいという形でやってもらったのかもしれないですね。

Q: 『バース』の後、金田さんはジブリに行ってしまったね。それは宮崎さんに誘われたのでしょうか?

上妻:そうですね。東映の『198X』[注12]っていう戦争ものがあるじゃないですか。あの時宮崎さんから東映の金田さんに直接電話来たらしいんですよ。で、「そんなもんやるな」って。やってる最中にそんな風に言われたらしいんです。なんでそういう電話したのかわかんないですし、それがきっかけってわけではないんですけど。

当時鈴木さんっていう方と山下君も接点があって、金田さんも接点があって、山下君が鈴木さんに金田さんを紹介したっていう話は本人から聞いたんですけど、はっきりわかんないんですよね。ただ鈴木さんっていう人はスターが大好きなんで。

Q: プロデューサーとしていいじゃないですか。

上妻:作品として名前があるってことが重要なんですね。

宮崎さん自身は金田さんがすごく好きだったんですよ。ただ合うか、合わないかはあるじゃないですか。作品の肌合い、タイミングの取り方も全然違いますから。宮崎さんは『カリオストロ』の頃から3コマ主体のタイミングの撮り方をしてたんですよ。東映動画の長編の場合は2コマ同セルなんです。当時の宮崎さんは3コマ同セルっていうタイミングの撮り方をとってたんで、それが合うのか合わないのかっていうのはあったんです。

結局金田さんを筆頭にNO.1の人たちがほぼ全員協力するっていう形になったんです。その時は、宮崎さんの好き嫌いが爆発している時代でした。NO.1で金田さんはいいけど、それ以外がダメみたいな。

Q: 『ナウシカ』の時は小松原さん[注13]がいたので金田さんと他のアニメーターを守れたんでしょうか?

上妻:そうですね、小松原さんは下の現場を大事にする方なんで、できるだけ残したい残したいっていう方なんです。小松原さん自身がすごく金田さんを好きでしたから。ただそうなるとやっぱり宮崎さんと衝突するわけじゃないですか。そういう面では結構大変だったらしいです。

Q: その後、『ラピュタ』では金田さんは「原画頭」になりましたね。そういう意味で宮崎さんも金田さんを大事にしてたのではないでしょうか?

上妻:特別扱いはしてました。

ジブリでは、遅刻だったら罰金なんですよ。一回遅刻で千円とか。で、金田さんに聞いたら金田さんも遅刻癖のある人でした。というか朝10時には来れないんですよ、アニメーターは。罰金箱っていうのがあってそこに遅刻したら千円とかを入れるんですけど、最初から一万円入れといたって本人言ってましたからね。

(一同笑)

Q: 当時は知らないけど、千円は結構高いですね。

上妻:高いですね。ちょっとすごい罰金額です。宮崎さんは人の出入りをすごいチェックする人なんですよ。入り口一番近いとこに座ってるのが宮崎さんなんです。当時の椅子の配席は宮崎さんが全部決めてたんですよ。宮崎さんは血液型信仰者でB型の人とA型の人を全部分けて、その配置も全部宮崎さんがやってます。

かなり神経質な方ですけど、金田さんはオーラみたいなところがあるからやっぱり特別扱いはありました。何がいいかって、スタジオの空気が明るくなるんです。ピリピリしてるところに金田さんが現れるとすごくいきなり明るくなると、オーラになる。それが好きだったみたいです。

Q: 作品に戻ると、『ナウシカ』と『ラピュタ』のように初めの方の作品は二人の構成がよく合っていたと思いますが、その後『魔女の宅便』の時から作画はちょっとリアルなスタイルになっていきました。金田さんはよりリアルな作品についてはどう思っていたのでしょうか?

上妻:そうですね、『トトロ』の頃は良かったみたいですよ。黒いススのやつあるじゃないですか、あれ金田さんが描いてるんですけど、「あれ丸描いただけだよ」って言って、「後は動画がやるんだよ」みたいな感じだったんで。(笑)
なので、あのお風呂のシーンとか、あの頃はまだ楽しめてたんじゃないかな。ただレイアウト原図は、金田さんが宮崎さんのコンテを拡大コピーしてましたね。それはね、許されないんですよ、本当は。ジブリでは拡大コピー禁止なんです。必ず自分で描かなきゃいけないところを、宮崎さんは金田さんがやることだけは許した。もうめんどくさいから、どうせ描いても直されるから、だったらコンテ拡大でいいじゃんみたいな感じで金田さんはやってたらしいんですけどね。

Q: 確かに『トトロ』のお風呂のシーンは修正が多く入ってしまったのではないでしょうか?映画を見ると金田さんのタッチはそんなに強く感じられないですね。

上妻:そうですね、金田さんに聞いたわけじゃなくて他の人に聞いたんですけど、金田さんの原画が上がってくると宮崎さんはニコニコしてるんです。いつも楽しそうに。でも作監のところに行くと全部修正さたんです。

Q: 結局どうして金田さんは宮崎さんの作品に参加するのをやめたのですか?

上妻:辛かったかな。ジブリでのプレッシャーは大きくて、金田さんは優しい人なんですけど、そういう環境に耐えてたの一部は金銭的な理由です。当時ジブリ以外で金田さんの給料を払えるところは日本のスタジオにはなかったんです。

で、スクウェアのハワイのホノルルの話は最初山下君に僕が声をかけたんですよ。山下君はその時4℃の『SPRIGGAN』のメカ作監をやってたんです。で、すごく疲弊してて、「ホノルルで映画作る話あるんだけど行ってみない」と言って声をかけたんですよ。本人はかなり疲れている状況だったんで、それに関しては逃げ場ができると思ったんでしょうね。すごくこううろたえていて、その日の晩のうちに金田さんに電話したらしいんですよ。で次の日に電話来て金田さんが「行く行く」って言って。僕は「ええ、お前電話したの?」みたいになっちゃって。(笑)でももう金田さんは行く気になってて、それがジブリやめるきっかけになったんです。多分1996年か97年のことか。

 

「接点がないんで、3Dの人たちとの会話が成り立たない」

Q:上妻さんの仕事場はハワイにあったんですか?スクウェアの。

上妻:そうですね、その時は僕自身はスクウェアの仕事は別途フリーでやってたんですけど、さすがに山下君も金田さんも行くっていうような事態になっちゃって心配になっちゃって一緒に行くことになったんです。

Q:もともとゲームには興味がありましたか?

上妻:なかったです。ただゲームは当時『FFⅦ』の仕事が初めてだったんですけど、お金が良かったんです。ほぼ商業アニメの10倍っていう単価でしたので、『FFⅦ』がかなり予算かけた作品なんですよ。実際にすごく予算が大きくて、僕もフリーでやってて、「これだけ単価違うとちょっとゲームの方がいいな」っていう時に、仕事してたスクウェアの方から「ホノルルに行ってくれないか」という話をもらいました。いやホノルルに行く気はないけどって言ったら、「だったら他のアニメーター紹介してくれないか」っていう経緯だったんですよね。結果的に誘った人間を含めて7人か8人ぐらいかな。

Q:『ファイナルファンタジー』の劇場版[注14]は上妻さんが絵コンテをやられたそうですね。具体的にどのような部分を担当されましたか?

上妻:冒頭からですね。オープニングの方からです。あの時に絵コンテを描いたのは4人か5人だったと思うんで、シークエンスチームで別れてたんですよ。3グループという形で、最初のシークエンスは100カットなかったんですよ。できてる部分は、ストーリーボードです。そのシークエンスはだいたい100カットぐらいだったけど、僕と稲野さん[注15]と金田さんが3人立ってそれを以下に他の3Dのチームとかを加えて、そのシークエンスを3つに分けて作るっていう流れだった。とりあえずレアアウトという形で作るになったんですけど、絵コンテはないわけじゃないですか。ストーリーボードはあるのに。

ストーリーボードはアメリカ流のストーリーボードなんで、それこそシーンに数カットしか絵がないんです。それをつなげるってなると、素人の方も多かったんで3Dの人いても作れないだろうと思って、自分のシーンは絵コンテを描いたんですよ。プロデューサーの坂口さんにそれを見せて、「自分のパートだけでいいからこれで作らせてくれ」と言ったら、坂口さんが「他も全部描け」と言ったんですよ。(笑)それで絵コンテチームが別に作られることになったんです。

Q:その絵コンテは結果的にアニメの絵コンテと同じ形でした?

上妻:そうですね。

Q:上妻さんは直接3Dをやられましたか?

上妻:そうですね、コンテのスーパーバイザーという形になりましたので、結局を当初は演出的な指示やりましたね。途中でプロデューサーの坂口さんが監督するみたいな形で立ち始めたんで、その時は状況は変えたけど、シークエンスとしてほぼコンテが完成してたんです。だからあとは実作業だけだっていうとこもあったんですよね。

Q:その映画のスタッフはアメリカ人と日本人もいましたね。

上妻:いっぱいいましたね。ロシア人も、ロシアの『テトリス』を開発会社から3Dのスタッフが結構いっぱい来てたんですよ。

Q:そのチームの交通はいかがでしたか?みんな別の国から来るので難しいところがありましたか?

上妻:スカウトの仕方がちょっと変則的でした。香港のチームとかあったんですが、一ヶ月でクビになってたりとか、もうそういうの結構繰り返してました。あと『テトリス』の会社の方は会社の創設者がホノルルにいた時期に亡くなってるんですよ。だから会社がどうなるんだみたいな感じでロシア人の方は心配してるし、本当にいろいろありましたね。

Q:金田さんの場合は、タイミングの入れ方は金田さんは自分のタイミングを持って、3Dになるとやっぱり変わってしまいましたか?

上妻:ええ、かなり違います。これは稲野さんも含めてみんなにとって問題になりました。

日本の商業アニメは平面だけでやるじゃないですか。奥行きも平面のデザインを起こすっていうことですね。それが奥行きが生まれた3Dだと、それがどうしても通用しないんですよ。最初、タイミングも含めてかなり難しかったです。で、金田さんは4コマ止めるとか、6コマ止めるとか、アクションの中でインパクトを生むためにそういう止め方をするじゃないですか。3Dではそれができないっていうか、やっちゃうとまずいっていう感じなんですよ。絵が止まることは現実的にありえないわけじゃないですか。人間の動きって、呼吸も含めて必ずずっと動き続けてるわけだから。それはちょっと困りましたね。接点がないんですよ。3Dの人たちとの会話が成り立たない。

これは僕が知らないところで動いたんですけど、金田さんがシークエンスの一つで、VFXのスタッフに自分のエフェクトをそのまま再現してもらおうとしてました。それは金田さんと稲野さんが主導でやられたんですよ。3Dのスタッフで一ヶ月ぐらいかかってきて、僕も突然呼ばれた。それをみんなで見ましょう、と。俺もよく知らないところで動いてたんで、大丈夫かなと思ったら、波動砲みたいな形で光がぼおってついてるところが、3Dのスタッフって金田さんの出す丸い球体のイメージが本人の頭の中でつながらないんですよ。弾丸の鉄球みたいなやつがもっこり出てきてズオンっていくだけなんですよ。周りにエフェクトが走ってるんですけど、「これは変だろう」ってなっちゃって。で金田さんは金田さんでそれ見て落ち込んじゃうし。(笑)

Q:その映画の後は金田さんと上妻さんもスクエアで働き続けられたんですね。それはやっぱりお給料が高かったから?

上妻:そうです。金田さんが亡くなる前は、定年後の話を僕としてたんですよ。ここ定年は正確にはないと。スクウェア・エニックスで最年長は金田さんだったので、金田さんのために定年延長の話が出てきたんですよ。65歳までしましょうかというので、その後は嘱託として残るみたいな。そういう話も進んでたんで、別にその後に関して心配はしてなかったんですよ。ただ金田さんはよく富野さんの話をしてて、新しい企画で自分の作品をやりたいっていうのがあったんです。多分あの定年後嘱託で残ったとしてもそっちの方やるからみたいな話はしてた。ストーリープロットも返したし、デザインもあったんです。

Q:そう、金田さんが亡くなった時にドキュメンタリーがあったんですね。そこでそのデザインが見られます。

上妻:そう、机の上に置いてあるのがあったんです。それは僕も知ってて、プロットも読んでたんで、「ああこれでやりたいんだ」と感じた。結局『バース』のリベンジだってね、そういう意味だったんですよ。それはもう本当にやりたかったみたいです。

Q:その企画のプロットや内容を覚えていらっしゃいますか?

上妻:京を舞台に、義経みたいな話なんですよ。鬼退治みたいな話なんですけど、主人公の男の子が暴れ回るっていう話なんですよね。金田さんは神社仏閣が大好きなんで、京都のお寺とかそういうのを舞台にやろうとしてたのは確かです。

 

「新房はセンスが良かったんです」

Q:では上妻さんのことに戻りまして、スクウェア時代の前に『幽☆遊☆白書』に参加されましたね。最初は、劇場版に金田さんを誘ったのは上妻さんですか?

上妻:いや、僕はあの時あんまり金田さんと接点はなかったんです。確か飯島正勝さんが監督やられてたじゃないですか。その縁でNO.1の人たちが参加するようになってたってのは確かですよね。NO.1の方はぴえろと仕事してたきっかけだと思います。

Q:『幽☆遊☆白書』といえばもちろん新房監督と一緒にやられた名作の第58話ですね。少しその話をしましたが、改めて新房監督との出会いを聞かせてください。

上妻:桜台にあったスタジオで山下君と一緒にいた時に彼が遊びに来たんですよ。カナメの後はスタジオ・ビーボーに行ったらしいんですよ。で、ビーボーも半年で辞めてプラプラしてる時に友達に誘われてうちのスタジオに遊びに来たんです。新房はちょっと変わったやつで、その時仕事してなかったんですけど、「ちょっとここで遊んでいきなよ」って言う流れだった。で新房が腹減ったんで弁当を買ってきて食うのを見てたら、弁当を箸で四つに切ったんですよ。で、四口で食ったんですよ。一分も経ってないですよ。

「お前さんすごいね、面白いね」って思ってさ。それで気に入っちゃって、いろいろ話するうちに新房に仕事ちょっと手伝ってもらったりとか。それは俺も山下君に言ったんですよ。でそのうち新房がアパートに遊びに来て、泊って行って、その延長でずっと一緒に暮らすようになったんです。(笑)

Q:で、上妻さんを『幽☆遊☆白書』に誘った方はやっぱり新房さんですか?

上妻:そうですね、あの頃は新房が原画を諦めてる時期で、どうしようかっていう話をしてた。ぴえろの監督の阿部記之君は新房と同い年だったんで、新房が「どうしようか」っていう話をして、阿部君が「演出の手伝いをやってもらおうか」って。それで新房は予告編の編集をすることになったんですよ。本格的演出やる前にちょっとフィルム作りの手助けみたいな形で予告編の編集をすることになったんです。ところが素材がないんですよ。フィルムがないんですよ。当たり前なんだけど、次の予告に出そうにも次の作品と言ってもまだできてないんでフィルムは一切ないんですよ。台本だけがあるの。だから有り体の材料、他の話数、それをくっつけて出鱈目に予告編を作ったんですよ。それはね、センスが良かったんです。で、「新房、お前さんセンスあるよ」とその時本人に言ったんですけど、珍しく本人にやっと笑って。自信をつけたみたいですよ。

僕自身は『幽☆遊☆白書』をやってたけど、最初は原画じゃなくてコンテだけをやってたんです。で、新房に演出やらせたんです。『幽☆遊☆白書』もあったし、その前に『ムサシロード』っていうメカの作品があって、あれも俺のコンテで新房の演出で、しまいには俺が原画描くことになって、それでやってたんですよ。でも実際演出としての処理も含めてセンスは感じましたよ。

Q: 最初から。

上妻:そうそう。だから『幽☆遊☆白書』の時はタツノコプロの方で仕事をよくしました。その時に100カットぐらいやってほしいって言われて、「いやしばらくコンテばっかりで原画描いてないから100カットなんて絶対無理」とか言ってた。「いやなんとかなるから」って言われて、結局30カットぐらいこぼして70カットぐらを描いたと思うんです。結局ガイナックスの黒田くんとかあの辺を連れてきて助けてもらったんです。

Q: あの話数の黒龍波はやっぱり『幻魔大戦』の火の龍のオマージュですか?

上妻:うん、勝手にやりました。(笑)あれ手に模様がついてて、入れ墨の形のイメージなんです。龍ってあんまり描く機会がないんで、とりあえずこれが飛び出したと思えばいいんだなっていう感じで描いたんですよ。あくまでここに流れる龍のイメージなんです。

Q: その話数の作画監督は若林厚史さん[注16]ですね。どのような作監でしたか?

上妻:実はその前から東映動画の仕事をした時、彼が研修生じゃなくてそこの人間だったんで知ってたんですよ。「あ、彼か」みたいな話になったんですけど、新房はその時若林君と常にくっついてる。新房が演出で若林君が作監という形でやってました。若林君は俺の絵が好きだったんで、もう全然直す気がないっていうか、そのまま出しやがった。
だからあの時はみんな仲間内でしたね。今P.A.WORKSに行ってる吉原君とか、西田寛治君とか、みんな本当に仲間内で作ってたって感じです。

Q: この話数は本当に歴史的な作品だと思いますが、新房さんや若林さんにとって歴史を作るような意識はありましたか?

上妻:新房がコンテを描き始めてそんなに経ってない頃だったんで、当時新房に一言を言ってたんですよ。「演出として一番大事なのは良い作画マンを揃えることだ」と。最終的にそれが一番得することだから、とにかく作画と仲良くなりなとか、良い人を連れてきてやれば自分が得するんだからと言って作ったっていうような感じです。やっぱりその後上手い人を大事にするようになったんですよ。それが結果的に自分に得することだっていうのははっきり認識してた。

話は飛びますけど、その後『メタルファイター♥MIKU』でキャラクター・デザインと作監は本田君[注17]でしょ? 本田君が新人で原画をやった時に、新房と二人で「これめちゃくちゃ上手いのがいるよね」っていう話をした。その時の印象があって、初対面なんだけど本田くんに電話してキャラデザやってもらうことになったんですよ。そういう行動的なところは強かったですね、新房は。とにかく初対面の人に嫌われないっていう得な性格も持ってたんで。人に好かれるんですよ新房って。今態度が悪いみたいですけど。(笑)俺らの時代の頃は本当人に好かれるタイプで。

Q: スーパーアニメーターと一緒に働くの話だったら、梅津さん[注18]と一緒によくやったんですね。

上妻:あいつ好きな絵がはっきりしてて、梅津さんが特に好きなのかな。例えば『ロボットカーニバル』の絵が。好き嫌いははっきりしてる。途中で鉄羅君と一緒にやるようになった。若い頃から俺も鉄羅君も桂君も知ってて二人は上手いです。桂君はもうキャラデザで売れっ子になってて、鉄羅君も上手いんで、鉄羅君と一緒にやるようになったんです。だから新房の初期の作品はほとんど鉄羅くんが原図とか原図整理とかやってんじゃないかな。

「広重の画作りっていうのはアニメにぴったりです」

Q: わかりました、ありがとうございます。実は、上妻さんの作品の中で一番気に入ってるのは『無責任艦長タイラー』のMVですが。

上妻:(笑)気に入ってるかどうかわかんないけど、まぁ、自分で背景まで描きましたからね。

Q: そうですね。そういうことで大好きです。最初はどのようなきっかけで演出と絵コンテの仕事を受けましたか?

上妻:そうですね、『タイラー』としては実は結構儲かったらしいんですよ、出版も含めて。
で、そのご褒美じゃないけど、それで別予算が出たんですよ。10本か12本かMVを作ろうっていう形になって、その時曲も同時にできてたんですよ。プロデューサーの方からとにかくこの曲の中から好きなのを選んでいいから作ってくれと言われて、その中で唯一おとなしいピアノ曲を選んだという感じです。

Q: 上妻さんのMVは日本画とか能楽の影響が感じられますが。

上妻:そうですね、ものすごく日本画が好きなんですよ。特に明治大正の日本画が好きなんです。その影響は僕自身はそれのように描けるわけではないんですけど、イメージとしてはそれですね。

Q: 具体的に影響を受けたとか、気に入ってる作品とか作家はありますか?

上妻:日本画なら菱田春草かな。その人の落葉っていう作品があるんですけど、それがものすごく好きで、それが実はあのMVの中の背景ってのはあれになってますかね。

Q: 僕も日本画が大好きなんですけど、作家と作品の名前を全然覚えてない。(苦笑)

上妻:漢字も難しいですしね。僕らでも読めない字が結構ありますから。

Q: 美術の話をすれば、上妻さんがTwitterに上げてる絵を見ると、なんかちょっとエゴン・シーレに似ているやつがあると思いますが。

上妻:とにかくエゴン・シーレは大好きですね。でもこれはアニメーターみんなが好きじゃないかな。

Q: そうかもしれないですね。なかむらたかしさん[注19]も好きですし。

上妻:そうそう。みんな好きなんですよ。多分森本晃司さんも好きなんじゃないかな。だいたい線の描写が強いじゃないですか。線が強い人が好きなんですよ、アニメーターって。で色が好きなのはゲーム関係の人です。クリムトとか、ミュシャが好きなのはゲーム関係の人で、3D系の人は彫刻です。彫刻だともちろんミケランジェロとかありますけど、イタリアのベルニーニが一番人気があるんです。ものすごく作品数も多いということもあるんだけど、本当に人気があります。僕自身も好きですけどね。でもやっぱり傾向がみんな偏るっていうか、同じ方向に行くんですよ。

Q: アニメーションと彫刻と言えば湖川先生[注20]がいますね。湖川先生が彫刻をやっててその影響を強く受けましたね。

上妻:あの立体的な部分でね。やっぱり日本人にはなかなか感じられない奥行きがあるじゃないですか。ヨーロッパの人もそうですけど、光と影で奥行きが出るじゃないですか。日本人って光はあるけど影はあんまりないんですよ。面なんです。影の描写ってあんまりしないじゃないですか。北斎はしますけど、それも結構簡易的な影なんですよね。光と影、どっから光が差しててこちら側に影ができるっていうはっきりした描写は曖昧なんですよね。色も曖昧じゃないですか。でもヨーロッパの方って光は色じゃないですか。

Q: そうですね。

上妻:だからはっきりその方向性が定まってて、それが奥行きにつながる。日本はわざわざそれを無視しているところもあるんですけど、距離を取ってますよね。そこの差がものすごく絵に今でも影響してますよね。ヨーロッパとアメリカの人たちは3Dの奥行きっていうのが強いじゃないですか。それがクレイアニメーションでもそうですけど。日本のクレイアニメーションってあんまり技術高くないじゃないですか。

Q: でもパペットアニメーションとかは川本喜八郎監督[注21]みたいな方がいるので、ストップモーションアニメーションの技術はあるんじゃないですか?

上妻:厳密に言うとほら奥行きの完璧さとかはあんまり求めないんですよね。背景は面でいいんです、彼らにとって。ゲームでもそうなんですよ。『FF』でもそうですけど向こう側の絵って描き割りですから。舞台美術みたいに平面のように入れてるだけなんで、実はあれって奥行き無いんです。

Q: その話を聞くと、村上隆さんの金田さんについての理論って知っていますか?金田さんの平面的な画面作りは浮世絵に似ているのだと。そのことはどう思われますか?

上妻:好きな望月三起也さんの絵が広重みたいな画面作りなんですよ。両サイドをシルエット隠して向こう側に橋が見えるとか、あの絵作りが望月三起也さんとか広重とかそっちの方なんです。その影響はありますよね、やっぱり。通じるっていうか、もちろん北斎は素晴らしいんですけど、よりデザイン的に完成度が高いのは広重じゃないですか。

あの画作りっていうのはアニメにぴったりです。あの斜め上から人がかぶさってきたりとかね。ああいう画作りって現実にはないわけだけどやると効果があるわけです。しかも止まってても大丈夫っていうことです。1980年から1990年代にかけて本当に枚数使えなかったんですから、いかに絵でごまかすかっていうとああいう画作りになってるんです。

Q: その話を続けて、例えば『北斎漫画』を参考として使ったことありますか?

上妻:ありますね、それは。ほら北斎って生活様式をよく描いてるじゃないですか。大工の仕事とか。ああいうのはやっぱりすごく参考になりますよね。だから時代劇物だったら見ることは結構多いです。金田さんが好きだったと思うんですけど、山下君も好きでしたね。例えば彼のふにゃっとした絵とか。

Q: 確かに山下さんの絵はディテールが多くて、それは北斎の絵柄にある意味で似ている。

上妻:煙とかエフェクトもそうじゃないですか。傾向が似てるんですよ。どこまで意識してるかわからないですけど、本人が好きなのは事実です。

「やっぱりリアルリアルはみんな好きじゃないんですよ」

Q: ありがとうございます。別の話になりますが、上妻さんは大平晋也さん[注22]の『わんわ』に参加されていましたね。最初はどのような流れで参加されたのでしょうか?

上妻:スクウェアで仕事してた時です。で大平君っていうのは新房みたいに人に声かけるのが得意なタイプなんです。自分の作品じゃないですか『わんわ』って。それも「みんなでガチャガチャやろうよ、『バース』みたいにみんなでめちゃくちゃやろうよ」、と。あれが好きなんですよ。本当に今でも言ってますけど、『バース』みたいなの作りたいですよねって。言ってるけど、俺は「え、また『バース』か」みたいな感じがありますが。当時そうだったんですよ。だから田辺さんとか、小西さんとか、湯浅さんとか、とにかくみんなに声をかけてみんなでやろうよみたいな感じだったんです。

Q: 実は上妻さんの作画、特にエフェクトはちょっと大平さんのスタイルに似ていると思うんですが、お二人の間に相互影響があると思いますか。

上妻:ないと思いますよ。大平君は山下君が好きだし。

Q: そうですね。でも上妻さんの絵の動きは山下さんと違いますが、大平さんの動きは山下さんに通じて上妻さんに似ているのだと思います。傾向が似てるという感じがします。

上妻:晋治君[注23]もね、当時一緒にやってたんで、晋治君は僕の絵が好きだったらしいんですよ。画が好きっていうより動きなのかな。一緒に仕事はしてなかったけどやってる雰囲気は近かったですね。で俺は山下君と一緒にいて、大平君は晋治くんと一緒に同じアパートにずっと住んでて。

Q: ある意味で上妻さんと大平さん、お二人のアニメーションはリアルと同時にリアルじゃないですね。

上妻:リアルは本質的に好きではないんですよ。リアル風に見せる、リアルからずれないけど、好きにやってるという動きが好きなんです。だからほら嘘は100パーセントは無理じゃないですか。それは誰も見てくれない。でも嘘を3割ぐらい入れたリアルというのが一番楽しいんじゃないかって思うんです。だからリアルで描いておきながら時々嘘をつくっていうのは、自分自身のストレス発散法なんですよ。見ててこっちの方がいいでしょ。でみんなでパラパラ見てこっちの方が面白いでしょって。そんな感じの描き方なんですね。みんな「あ、そっちの方が面白いです」って。やっぱりリアルリアルはみんな好きじゃないんですよ。ガチガチなリアルは。

Q: そうですね。正直に言うと、日本の一番リアルなアニメーターは多分沖浦さん[注24]だと思いますが、技術的にすごいですけどちょっとリアルすぎるっていう感じもあります。

上妻:でも最近はこなれてきてるなって感じがあります。昔は本当ガチガチだったんですけど、最近見ると『龍の歯医者』の頃は意外とエンターテインメントしてるな。少しこなれてきてるなっていう感じで良い感じでしたね。自分の作品になるとやっぱり自分のもろ好みが出ちゃうから、人間モーションキャプチャーみたいなやつするじゃないですか。(笑)

でもモーションキャプチャーの経験よりも、自分でリアルな造形を追ってたらああなったっていう人間なんですよ、彼は。本質的に天才だとは思うんですけど、完全にリアルな造形を拾ってるだけなんですよ。

本田君みたいにキャプチャーを経験して動きが変わったって人間もいますからね。ある作品に本田君がキャプチャーを拾ったんですよ。でも動きを変えたらしい。やっぱり全然違うものを見たっていう感じがあって、だから僕自身が若い子は、とにかく一回キャプチャを経験した方がいいと思ってます。そうすると動かす意味が変わるから。

Q: 上妻さんはキャプチャーとか参考映像とかを使っていますか?

上妻:見ます。ただ拾うことはないです。頭に入れるって感じです。自然現象でもそうですけど、それを拾うことはなくて頭に入れる。自分の印象の方が大事なんですよ。特に第一印象。二度三度見ると違うものが見えてくるので、一発目の見た印象を大事にするという感じです。

「アニメーターには、コントロールが一番必要なんですよね」

Q: では、今の仕事について聞きたいと思いますが、現在は上妻さんはなんというか、大きなアクションアニメによく参加されていますね。

上妻:まぁ、どうしてもそういう傾向になりますね。(笑)

Q: 例えば『Fate/Apocrypha』とか『呪術廻戦』とかですね。80年代のアクションアニメと比べて今のアクション作画はどう変わりましたか?

上妻:絵が変わってます。フォルムの印象もそうですけど、はっきり言っちゃっていいんでしょうけど、あんまりいいフォルムではないんですよ今のフォルムって。バチバチするような印象っていうか、それが自然現象に沿ってるのかわからないけど、デザイン的にその絵を描いてるっていう。

煙のフォルムもね、柿田君[注25]が描いた頃のフォルムだったらリアルなんですよ。でもその柿田君のリアルさからどんどんみんな離れちゃってるっていう感じがあるんです。「元の柿田君が描いたやつはいいじゃん」という感じがします。あれはね、金田さんと見てて、「わ!あこれ素晴らしい」っていう感じなんですよ。そこからどんどんみんな離れちゃって俺にはおかしいだろうって。

今のは誰かが描いたものを真似して慣れで描いてるってイメージがあります。柿田君があれ描いた時は多分実写のフィルムとかを見ながら描いてたと思うんですね。それが良いものになってるんで、今の子たちのフォルムはどうしてそれから離れてるっていう。

Q: よく聞くのはエフェクトとショックコマがあまりにも多くて、アクションのわけがわからないです。そういう意見がよくあるのだと思いますが。

上妻:やっぱりそれはデジタルだから、別セルでやってるっていうのもありますよね。昔は3コマ同セルとか、昔の東映動画の長編アニメーションは2コマ同セルなんですよね。結局画面の中ですべてが一枚の絵でコントロールされてる。そういう考え方でやられてるんで、小さいエフェクトも含めてコントロールがされてるんですよ。ところが別セルにしちゃうと単体で見ちゃうもんだから、この別セルがこっちのエフェクトが邪魔してるというのが基本的にわからないんですよね。いらないエフェクトだったりするのがわからないですよ。同時にパラパラしないから。いろんな情報を与えたくなるじゃないですか、寂しく感じるから。でも本当は邪魔なものを排除する方が大事なんだよね。この動きを見せるためにこれは邪魔なんだよというところのコントロールが一番必要なんですよね。だから必要な時には入れていいんですけど。

Q: うん、でもアニメーターは時々入れすぎちゃって、、、

上妻:そうそう、みんな自分のカットだけを目立ちたいと思うじゃないですか。そうすれば、過剰になるんですよ。カット内でも過剰になってて、人間がどこを見ていいか分からなくなっちゃってるんですよね。その人に何を見せたいの?キャラクターの動きを見せたいとなったら前のエフェクトが邪魔になってるよって、そういうコントロールができてない。

Q: でもその逆に、80年代と違って、今のアニメファンはよく「作画崩壊、作画崩壊」と言って、アニメーターの自由はだんだん消えてしまうんじゃないでしょうか?

上妻:そうですね。デジタル普及ということもあるんでしょうけど、キャラクターを寄せるということの方がクライアントの要請も大きくて、すごく重要になっちゃってるんです。それに関しては結局予算も含めて規模がでかくなっちゃったじゃないですか。だからより大きな人が見てるからクライアント側もやっぱり気遣うようになってるのは仕方がない流れかもしれないですよね。1980年代の僕らがやったカットごとに顔が変わるような作画って今は許されないわけじゃん。

Q: 確かに今と言えば昔の『うる星やつら』みたいな作品はありえないでしょう。

上妻:そうそうそう。でもみんなはそれをやりたいって言ってるんですよ。本当にみんなが「あの時代が一番楽しかった」と言ってる。古い人もそうで、新しい子もそう思ってるんですよ。やっぱあの時代のアニメーションが一番楽しいって。

 

「御所園君はセンスありますよ」

Q: そうですね。アクションアニメの話をすると、上妻さんは今MAPPAとよく働いていますが、MAPPAは他のスタジオと何かが違いますか?

上妻:特別違うところはないんですけど、システムが強いですよね。特に昔はなかった二原っていうシステム、この二原のスタッフでいい子を揃えてますね。ものすごくいい子たちを揃えてる、しかも全員拘束で。

昔なら二原というのは動画の延長みたいな部分もあって、決してアニメーターとして認められてる立場ではなかったんですよ。ディズニーの二原とは全然違います。ディズニーの二原というのは、キャラクターのブラッシュアップに近いんで相当上手い方がやってますよね。日本の二原ってそうではないです。単純なキャラ寄せなんですよ。でもそのキャラ寄せのレベルが高いんですよ、MAPPAが使ってる人は。

そういう意味でMAPPAの場合はだんだん状況は、少なくとも対外的な部分は他のとこよりだいぶ良くなってきてるんです。外国人の方結構昔からあれしてるじゃないですか。元々は丸山さんの会社だったんで、そういう面では結構自由に出入りする方が多いんでいいんじゃないかなと思う。朴さん[注26]だって韓国の人ですから。

テレビシリーズだとどうしても一話とか二話ならいいんですけど、それ以降になるとどうしても詰まってしまうんで。一話だけ一年かけるというのはMAPPAでも普通にあるんですけど、一話だけかよっていう状態になっちゃいますからね。ものすごく時間かかりますから。

Q: さっき二原のお話をしましたが、自分の二原はやってますか?

上妻:自分の二原はやらないですよね。僕に仕事を出す時は大体原画として完結するので、原則は二原で回すという前提は一切ないんです。僕が最後まで描くということですね。エフェクトも含めて僕が完結させるというのが仕事の内容なんですよ。

Q: 上妻さんはまだ紙を使うんですか?

上妻:いや今はデジタルになっちゃいます。どうしても作業的に紙は煩雑になっちゃって。今モニター何台も並べられて、設定はこちらのモニターに映して、iPadを二台並べてという感じで、あとモニターもありますしという作業になっちゃいますね。

Q: デジタルになったのはゲーム会社の経験があるからですか?

上妻:そうですね。デジタルで扱うじゃないですかどうしても。フォトショップでアフターエフェクトで使えるか使えないかじゃなくて、とりあえずちょっと触ってみてくださいみたいな感じでした。だから全部触れてたんで、そう意味では抵抗はなかったですね。

Q: そういう意味でMAPPAとよく合うのではないですか?例えばMAPPAの作品では3Dレイアウトとかがよく使われています。

上妻:なかなか難しいですね。3Dレイアウトは昔からあることあるんですけど、どうしても3Dレアウトを作る人が絵心がある人ならいいんですけど、なかなかうまく合わないというのがありますよね。これは新しくても古くても全然変わらないですよね。いつまで経っても変わらない命題ですよね。

Q: 上妻さんの前作を知らない若いファンに注目された仕事はおそらくMAPPAの『ゴッド・オブ・ハイスクール』だと思いますけど、武道対戦の話なので、ある意味で『幽☆遊☆白書』の繰り返しじゃないですか。

上妻:(笑)朴さんが僕のアクションが好きというのもあるんですけどね。でも朴さん自身が一番影響を受けてるアニメーターとは鹿間貴裕君なんですよ。鹿間君みたいなアクションが大好きなんですけど、鹿間君自身は僕らの世代のアニメーションが大好きな男なんで、やっぱりその流れ繋がっちゃうんですよ。

朴さんはセンスがあって、馬力もありますし。すごくそういう面では、僕自身に気遣ってくれますので、もう何やっても許すみたいなところがあります。だからやりやすいのは事実ですね。

Q: 上妻さんの大きな最近の仕事では、『Fate/Apocrypha』、第22話もあるですね。また歴史的な作品でしょ。

上妻:あ、伍君[注27]のやつ?

Q: そうです。どのようにしてその話数に参加されたのですか?

上妻:伍君の友達の塔也君がいて、塔也君が伍柏諭がどうしてもお願いしたいと言って連絡来てという感じです。伍君自身も大平君じゃないけど、みんなとワイワイやりたいタイプなんで、気のいい男で人に好かれるんですよ。伍君に会ったことはないか?伍君はね、フランス語もできるはずなんです。彼台湾人なんですけど、5ヵ国語できるって言ってました。

Q: 会ってないけど、それはすごい。(笑) 最後に今放送している『呪術廻戦』の2期はいかがですか?

上妻:御所園君[注28]はセンスありますよ。本人とも話した時に、多分新房よりあると。新房はどうしても昔の少女漫画とか漫画のイメージが強いんですよ。日活ロマンポルノもそうなんですけど、趣味がはっきりしてるんですよ。よく一緒に見てたのは日活の映画や東映のヤクザ映画とか。こういう様式美がはっきりしたのが好きで自分の中にはっきりあるんですよ。

御所園君はまだ若いということもあるんだけど、まだそこまではっきりしてないから、逆にこれからなんじゃないかなって思いますよね。自分が作りたいアニメは確かにあるみたいですけど、でもまだそこまでガチガチに固まってないから、いいんじゃないかなと思います。

Q: ありがとうございます。実は、上妻さんの話を聞くと、上妻さんのすごさがわかってきたときがします。大ベテランなのに、今の若手アニメーターとか演出とすごく仲が良くし、作画はまだ新しい感じが出せるというのはすごいことだと思います。

上妻:多分ね、ゲーム会社に行ったのが良かったんじゃない。ゲーム会社に20年間いたじゃないですか。その間アニメの仕事をほとんどやってなかったっていうのが逆に新鮮さを、僕自身が新鮮だっていうのもあるんですけどね。やっぱり新しいものを生むために休むのも必要だと思います。

このインタビューは、全文を無料でご覧いただけます。なお、このような記事を今後も出版できるように、ご支援をお願い申し上げます。

脚注

  1. 金田伊功 (かなだ・よしのり、1952-2009) アニメーター。日本のアニメーション史において最も重要なアーティストの一人。 その独特のスタイルで広く知られるようになった最初のアニメーターの1人です。 金田は、山下将仁から今石洋之、亀田祥倫まで、何世代にもわたる生徒を輩出してきました。 代表作に『無敵超人ザンボット3』、『銀河鉄道999』、『風の谷のナウシカ』など。
  1. 大塚康生 (おおつか・やすお、1931–2021) アニメーター。1950年代後半の東映動画時代から2021年に亡くなるまで、何世代にもわたってアーティストを育てた日本アニメーション史上最も重要なアニメーターである。日本におけるエフェクトやメカアニメーションの発明者の一人であり、宮崎駿の師匠と親友であった。
  1. 山下将仁 (やました・まさひと、1961年生). アニメーター。1980年代のアニメーション界を代表するアニメーターの一人で、極めて様式化された作画と突飛なタイミングで有名になった。特にエフェクトやメカアニメーションに大きな影響を与えた。
  1. 望月三起也(もちずき・みきや、1938-2016)。 マンガ家。 1969年から1979年まで連載されたアクション シリーズ『ワイルド 7』で最も有名な少年漫画家。スタイルは、ダイナミックな構図と現実の乗り物や武器のリアルな表現が特徴です。
  1. 実相寺昭雄(じっそうじ・あきお、1937-2006)。 監督。 『ウルトラマン』と『ウルトラセブン』の演出として最も有名で、いわゆる「仏教三部作」の長編映画の監督としても知られています。 実相寺は、はっきりとしたコントラストと珍しい構図を使う表現主義的なスタイルで知られています。
  1. 湯山邦彦(ゆやま・くにひこ、1952年生)。 監督。 葦プロダクション出身の監督で、有名な魔法少女アニメ『魔法のプリンセスミンキーモモ』を監督。 その後カナメプロダクションに移籍し、『幻夢戦記レダ』を監督。 1997年からはポケモンアニメシリーズのチーフディレクターを務めている。
  1. いのまたむつみ (1960年生)。アニメーター、キャラクター・デザイナー、イラストレーター。80年代を代表するキャラクター デザイナーであり、『幻夢戦記レダ』と『ブレンパワード』で最も有名です。 または、『風の大陸』や『宇宙皇子』など、90年代の人気ライトノベルシリーズのイラストレーターとしても有名です。 
  1. 芦田豊雄(あしだ・とよお、1944-2011)。 アニメーター、キャラクターデザイナー。 1970年代から1980年代の主要アニメーター、スタジオライブのクリエイター兼社長。『 宇宙戦艦ヤマト』や『魔法のプリンセスミンキーモモ』、『銀河放流バイファム』のデザインで有名。
  1. 新房昭之(しんぼう・あきゆき、1961年生)。 アニメーター、監督。 スタジオシャフトでの仕事で最も有名な監督で、現在 20 年近くメイン クリエイティブを務めています。 それ以前は、『幽☆遊☆白書』や『忍空』などの人気シリーズでの演出仕事により、1990年代の新世代のアクションアニメーターの出現において重要な俳優となりました。 スタイルは、色使いと型破りな編集で有名です。
  1. 『幽☆遊☆白書』1992-1995テレビシリーズ、阿部紀之監督、スタジオぴえろ作品。 冨樫義博の原作で、90年代で最も人気のある少年アクションシリーズの1つです。 若林淳や西尾鉄也など新世代のアクションアニメーターの育成に大きな役割を果たした。
  1. 『バース』、1984年OVA、貞光紳也監督、カナメプロダクション作品。金田伊功がオリジナルストーリーでキャラクターデザインと作画監督を手掛けた、最も個人的な作品として有名なOVA。 そのエネルギッシュなアニメーションにもかかわらず、そのわかりにくいプロットのためにしばしば批判されます。

12.『FUTURE WAR 198X年』、1982年映画、勝間田具治と 舛田利雄監督、東映アニメーション作品。ソ連とアメリカの第三次世界大戦を想定したSF映画。 当時、その軍国主義的な認識から激しく批判された。

13. 小松原一男(こまつばら・かずお、1943-2000)。 アニメーター、キャラクターデザイナー。 スタジオオー・プロダクションのメンバーで、『デビルマン』、『UFO ロボ グレンダイザー』、『銀河鉄道 999』などで知られる70年代の最も有名なキャラクター デザイナーの1人です。

14.『ファイナルファンタジー:ザ・スピリッツ・ウィズイン』、2001年映画、 坂口博信監督、スクエアピクチャーズ作品。 当時としては画期的なこの映画は、制作に4年を要した初のフォトリアリスティックなコンピューター アニメーション長編映画でした。 しかし、興行的には失敗であることが判明した。

  1. 稲野義信 (いなの・よしのぶ、1953年生) アニメーター。スタジオバードでアニメーターをつとめた。その後スクエア、A-1ピクチャーズ作品で活動。富野由悠季監督、湖川友謙 作画監督作品への参加で有名。のちに3DCGアニメへと進出した。

16.若林厚史(わかばやし・あつし、1964年生)。 アニメーター、演出。 90年代初頭の新世代のアクション アニメーターの主要人物であり、アニメーターの松本憲生との友情でよく知られています。 二人は協力して、NARUTO シリーズの最も有名で印象的なエピソードのいくつかを生み出しました。

  1. 本田雄 (ほんだ・たけし、1968年生) アニメーター、キャラクターデザイナー。師匠というニックネームで知られている。ガイナックス出身で、「リアル系」アニメーターとして多くの作品に参加した。代表作品は『電脳コイル』、『ヱヴァンゲリヲン新劇場版: Q』、『君たちはどう生きるか』など。
  1. 梅津泰臣(うめつ・やすおみ、1960年生)。 アニメーター、キャラクターデザイナー、監督。 80年代のリアル系作画の主要メンバーの1人で、『メガゾーン23 パートII』、『ロボットカーニバル』、『AKIRA』で有名。 近年は『それでも町は廻っている』『Dimension W』『美少年探偵団』などのオープニング演出・作画を中心にしている。
  1. なかむらたかし (1955年生)。 アニメーター、キャラクターデザイナー、監督。 『AKIRA』のアニメーション監督を務めた、おそらく80年代のリアル系作画のリーダー。 『突然!ばにパルウィット』や『パルムの樹』などの長編映画に続き、スタジオ4℃の監督兼デザイナーとして活躍。
  1. 湖川友謙 (こがわ・とものり、1950年生)。アニメーター、キャラクターデザイナー。富野由悠季監督とのコンビで、『伝説巨神イデオン』『戦闘メカザブングル』『聖戦士ダンバイン』のキャラクターデザインで特に知られる。そのユニークなデザインと解剖学へのこだわりは、1980年代初頭におけるリアルアニメーションの先駆者の一人となった。
  1. 川本喜八郎(かわもと・きはちろう、1925-2010)。 パペットデザイナー、演出家。 岡本忠成と並び日本で最も有名な人形・ストップモーションアニメーター、監督の一人。 『三國志』などの長寿テレビ シリーズの人形をデザインしまして、アニメーションの短編映画でも有名です。
  1. 大平晋也 (おおひら・しんや、1966年生)。 アニメーター。日本のアニメーション界で最も急進的なアーティストの一人で、非常に緻密で表現主義的な作画で知られています。 1990 年代のリアル系アニメの主要メンバーで、今は実験的なものに近づいています。 『紅の豚』以来、宮崎駿作品によく参加しています
  2. 橋本晋治 (はしもと・しんじ、1967年)。 アニメーター、キャラクターデザイナー。1990年代初頭から大平晋也と親交があり、リアル系アニメーションの主要メンバーの一人である。デフォルメを多用する点で、大平氏と作画が似ているが、橋本氏はあらゆる作風に対応できることでも有名で、スタジオジブリ作品の常連である。
  1. 沖浦啓之 (おきうら・ひろゆき、1966年生)。 アニメーター、監督。アニメアール出身。『アキラ』に参加し「リアル系」アニメーターとして知られるようになって、作画の恐るべき解剖学的正確さで知られています。監督としての代表作品は『人狼 JIN-ROH』『ももへの手紙』。
  1. 柿田英樹 (かきた・ひでき)。アニメーター。スタジオボーンズでの『エウレカセブン』、『血界戦線』、『スタードライバー』などのシリーズ作品で主に知られるエフェクトアニメーター。 最近では『メタリックルージュ』のメインアニメーターを務めている。
  1. 朴性厚 (パク・ソンフ)。アニメーター、監督。 2000年代初頭から日本を拠点に活動する韓国人アニメーター。 彼は、Studio MAPPA のアクション シリーズ『牙狼<GARO> バニシング ライン』、『ゴッド オブ ハイスクール』、『呪術廻戦』シーズン 1 の監督としての仕事で有名になりました。
  1. 伍柏諭 (ご・はくゆ、1992年生)。アニメーター、演出。 今の新世代のアクション アニメーターの主要メンバーであり、Fate/Apocrypha第22話での絵コンテ、作画監督監督としての並外れた仕事で名声を博しました。それ以来、モブサイコ 100、天国大魔境、呪術廻戦シーズン2などの主要シリーズでさらに傑出した話数を演出しています。 
  1. 御所園翔太 (ごしょぞの・しょうた)。 アニメーター、監督。 今の新世代のアクションアニメーターを代表する人物。 『王様ランキング』の演出・絵コンテ・作画監督として注目され、『呪術廻戦』シーズン2の監督に就任。

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