前回のアヌシー国際アニメーション映画祭にて私たちは良く知る顔、毎年MIFA(アニメーション国際見本市)にて数々の活動を発表する竹内孝次氏と顔を合わせる機会を得ました。私たちが竹内氏と初めて出会ったのは2017年の同祭典でのことです。竹内氏が泊まっていたホテルが私たちの滞在場所の目の前だったので、毎日シャトルバスを共にしていたのです。ある日の夕方、私たちだけがバスに乗っている中、竹内氏が話しかけてきました。そこで私たちは彼がアニメ界の伝説的なプロデューサーであることを知りました。乗車中竹内氏は宮崎駿氏や高畑勲氏との仕事の経験や、『NEMO/ニモ』の制作の逸話等を語ってくれました。
竹内氏自身が語るには、彼は宮崎駿氏、高畑勲氏と共に働いて唯一胃潰瘍にならなかったプロデューサーとして有名です。
彼のキャリアの始まりは1970年代半ばの日本アニメーション、そして瞬く間にテレコムアニメーションの二代目代表取締役を務める程になりました。テレコムでの立場を降りた後は後進の育成に努めることを決め、日本の政府やアニメ会社と共に、数々の組織を設立しました。竹内氏が主導した取り組みには、アニメミライ、アニメタマゴ、若手アニメーター育成プロジェクト等があります。また、今年の3月10日から13日まで開催される東京アニメアワードフェスティバルのフェスティバルディレクターも務めています。
竹内氏と席を共にし、キャリアについてや、彼の大塚康生氏、宮崎駿氏、高畑勲氏やグループのその他のメンバーとの逸話について尋ねる機会を頂いたことをとても光栄に思います。
このインタビューは、全文を無料でご覧いただけます。なお、このような記事を今後も出版できるように、ご支援をお願い申し上げます。
○では最初に、竹内さんは大学で何を専攻されて、どのようなきっかけでアニメをお仕事に選ばれたのでしょうか?
●大学はね、有機化学ってわかる?オーガニックケミストリーでした。それでなにがきっかけで、いろんな会社、ドキュメンタリーの会社とか受けたんだけど、全部落っこって、それでたまたま日本アニメーションという会社の新聞広告があって、僕はアニメーション全く知らなくて、それでテレビ局の先輩に聞いたら、テレビ局の先輩もアニメーションってその頃知らなかったんだよね。日本の場合、漫画って言ってたから。それで、やりたいならどこでもいいから入った方が良いんじゃないのって言われて、試験受けに行って、なんとなく入っちゃったっていうだけです。動機がないという。
○日本アニメーションに入って、宮崎さん、高畑さん、近藤さん (注*1)、大塚さん(注*2)とグループになったじゃないですか。どうやってこのグループを立ち上げたのですか?
●高畑さんと宮崎さんはもう組んで仕事をしていたんですよね。そこに僕はたまたま割り振られたっていうだけです。それで、割り振られたら、僕が思っていたのよりもはるかに緻密に物事を考えて作っていたので面白いなと思いました。大塚さんと近藤さんはね、大塚さんは僕が日本アニメーションに入って、3年目の時に『未来少年コナン』(注*3)という作品があって、この時に大塚さんが入ってきました。近藤さんはその時も別の会社で原画を描いてたの。で、4年目になってから、『赤毛のアン』(注*4)という作品があって、高畑勲さんの作品なんで、その時に近藤さんが入ってきた。僕は4年目までその会社にいたから、その4年目で、近藤さんとはかなり親しく仕事をしました。
○『未来少年コナン』や『赤毛のアン』では、監督の完璧主義が強かったと聞いています。制作進行としてどのような経験をされたのでしょうか?大変ではなかったのでしょうか?
●高畑さんが大変だったということ?
○竹内さんが制作進行として大変だったかどうかという。
●制作進行というのは、時間の管理、人の管理、お金の管理ということなので、だいたい物事がスケジュール通り終わるということはないから、どの作品でもすごく大変なんですよ。大変さからいうと、一番最初が『母を訪ねて三千里』(注*5)、その次が…ああ、ごめんなさい、大変さからということではなくて、『母を訪ねて三千里』という作品が最初で、それから『あらいぐまラスカル』(注*6)で、『未来少年コナン』があって、それから『赤毛のアン』という。スケジュールはどれも大変だったので、みんな大変でした。『赤毛のアン』の時は、高畑さんが完璧主義だから大変だったということではなくて、『赤毛のアン』の時は元々当てにしていたスタッフが辞めてしまったんですよ。それからね、宮崎さんを始めとしてね、何人かの人、非常に能力のある人が辞めてしまったから、それで予想以上に大変だったということですよ。
○後に、高畑さんは東京ムービーで『じゃりん子チエ』(注*7)の劇場版を監督されます。竹内さんは制作デスクを担当されました。大塚さんは竹内さんや高畑さんを励まされていませんでしたか?
●『じゃりん子チエ』の時は、大塚さんが作画監督で、『じゃりん子チエ』の中にはチエちゃんという主人公の女の子と、テツというめちゃくちゃなお父さんがいたんですよ。それで、大塚さんはテツというめちゃくちゃなお父さんの方を主に作画監督して、チエちゃんの方は小田部洋一さん(注*8)という、その人が作画を監督したんですね。それで、大塚さんは作画監督をやりながら、片方でも仕事はできるだけ上手く回るよう、というようなことでいろいろやってくれました。
一番最初に取り掛かりの時に、絵コンテがね、作画委員になっても、あがりそうもなかったんだ。それで、しょうがないから僕が、高畑さんと大塚さんともう一人の三家本さんという三人を、日本の山奥の旅館に閉じ込めたんですよ。それで、その旅館の人には絶対に車で送らないでって言って。それはね、一番近い電車の駅から車で30分くらい離れた所にあったのよ。だからそこに皆、紙とか鉛筆とかそういった機材を持って行って、それから高畑さんとかその三人を入れて、旅館の人に「ご飯だけ出しとけばいいから、あとはほっといてください。」って言って、それはどのくらいかな、十日ぐらい、二週間かなぁ、十日か二週間くらいいれといたんだよね。その時に大塚さんが、高畑さんに「こういうの?こういうの?」って言って、それこそ高畑さんは完璧主義だから、いい加減なものをOKって言わないんだよ。で、大塚さんは別にいい加減ってわけじゃないけど、高畑さんがダメって言うようなものもどんどん高畑さんに出したわけ。そうすると高畑さんは「大塚さん、そんなのダメですよ」って言って、「こういうことじゃないといけない」っていう風な答えを出してくれたわけ。そういう風なことを大塚さんはやってくれた。
あと、『じゃりン子チエ』はね、とにかくスケジュールが遅れたのよ。あの一番最後の、これはストーリーの中ではチエちゃんとお母さんとテツが良い家族になるというような予感がするところ、遊園地から帰ってくるところがあって、そこをどうしたらいいかということで、高畑さんが非常に悩んでしまって、絵コンテがその部分だけどうしてもあがらなかったの。そんなことがあって、実はあれはお正月公開だったものがお正月にはもうあがらない、で、しょうがないので、僕じゃないもっと上のプロデューサーの人たちが高畑さんを連れて東宝という映画会社に謝りに行ったんですよ。それで、3月までにあげるという約束を高畑さんが取り付けて、で僕もやっぱ呼ばれて、「お前何が何でも3月までにあげろよ。」って言われて、何とかあがったから良かったっていう。大塚さんも頑張ってくれたし、小田部さんはねその時にね、日本の弓に凝っていて、弓道、小田部さんは弓を射って、体調を整えてから会社来るんで遅くなるんだよ。それで、「そんな悠長なことやってる場合じゃないでしょう。」って、僕は随分小田部さんと喧嘩したけどね。
○大変ね… 今年のアヌシーでは『ニモ』(注*9)が上映されます。大塚さんが本作に関わられていた時には竹内さんも既にこの作品に関係されていたのでしょうか?テレコムに移られたのは正確にはいつだったのでしょう?
●えっとね、1982年に、宮崎さん高畑さん大塚さんを含んで、十数人がアメリカにいったんですよ。それは『ニモ』を作るためにアメリカのアニメーションを勉強するということで行ったんですよ。だからその時からもう『ニモ』は始まってるんですね。で、『ニモ』が完成したのが89年かな?で、ここに来たのが91年ですよね。だからまあ、89年とか90年とかそのくらいに出来たんだよね。で、その間に人が随分変わったんですよ。大塚さんはそれを本に書いてるんだけれども、シナリオも一番最初はレイ・ブラッドベリという有名な人が書いたり、大塚さんは元々「監督の器ではない、自分は。」ということを言っていて、そういうポジションには就かなかった人なんだけども、高畑さんが辞め、宮崎さんが辞めということで何人も辞めていく、近藤さんも辞めたの。その中で大塚さんが「仕方がない、僕がやるしかないか」ということで、大塚さんが監督に立った時期があります。だけども、この時は藤岡さん(注*10)という社長がいて、やっぱり、藤岡さんは思い入れが色んなことに強くて、中々監督が思うような作品を作らせてくれなかったんだよ。で、大塚さんもダメで大塚さんも降りて、最終的には波多正美さん(注*11)とウィル・ハーツ(注*12)、その二人が共同監督をして作るということになったんですよ。大塚さんも、作った時に裏では原画とか手伝ってくれましたけど、最終的な作品には大塚さんは殆ど関わっていないという形になりました。僕は頭からずっと最後までやりました。
○その当時は『AKIRA』もありました。テレコムは大きな役割を果たしていましたね。『AKIRA』にも参加しましたか?
●『AKIRA』はね、さっき『ニモ』は82年から89か90年までやったって言ったんだけど、やってはストップし、やってはストップし、っていうことが起こったのね。で、ストップしていた時に『AKIRA』という作品をやろうという話が上がって、その当時テレコムのスタッフって良いスタッフが揃っているということで有名だったんですよ。それで、大友さんも「テレコムのスタッフやらないの?」って話があって、じゃあやりましょうということで、最初『AKIRA』だから、プロデューサーとして僕が入って、シナリオの打合せからやったんですよ。大友さんはその時『AKIRA』はまだ原作が完成してなかったんです。だから『AKIRA』の映画の最後をどうするかということで中々決断がつかなくて、やっぱりその時もね、スタッフはね、4人ぐらいか僕も含めて、4,5人で箱根の温泉に詰めて、いつ頃ぐらいに詰めたかな、で、『AKIRA』のプロットを完成させていって、「最後、結論が出ないから、ちょっとそれは考えさせてくれ。」と言って大友さんはちょっと考えるということにして、そしてシナリオに入ろうという話になったんだよ。それで、とにかくうちのスタッフを、色指定だとか、色々と加えてチーム編成をしたんだけれども、そうしたらね、『ニモ』のね、パイロットを作らなければいけないと、これは藤岡さんからの要請で、『ニモ』のパイロットを何が何でも作らなければならないと、これは、今世の中に出ている近藤・友永(注*13)のパイロットではなくて、出崎(注*14)・杉野(注*15)のパイロットで、それを作らなければならないということになって、それでテレコムのスタッフを皆ね引き抜いたんだよ。だから、大友さんは怒ったと思うけど、まあ、一応その後大友さんは、どっかで顔を合わせると挨拶はしてくれますけど、あの、怒っても仕方がないと思います。
○映画のエンディングのお話なら、『もののけ姫』がセル画からデジタルになった切っ掛けを説明してくださいませんか?
●まあ、なんかよくしってるねー!『もののけ姫』の時はね、まあ一つはコンピューターでCGを入れる、という新しい試みがあったのね。だけどもそのCGを入れてるっていうだけで、その頃テレコムはねデジタルペイントというのをやってたんだよ。だけど、『もののけ姫』はセルで塗ってたのね。で、最終的に動画も遅れてきて、色もつかないと、いう話があって、まあその時宮さんかな、まあとにかく、「色がつかないんでどうしたらいいか。」って相談に来たんだよ。で、僕だったらこうします、というので、コンピューターで色を付けます、というのを提案したんだよ。そう、宮さんと話したんだ。当時はね、ジャギーがまだ完全には解消されていなかったんですよ。それで、「ジャギーがあるからあれじゃダメだろう」という話があって、「いやいや、解像度を上げたらそれは解消できますよ。」というような話をしていて、その当時仕上げは保田さん(注*16)という人がいて、安田さんはきちんとしたものを仕上げたいと言わはって、宮さんは「やっちんを説得してくれ。」ってことを言われて、だから僕は安田さんに「セルではこういう欠点があると、それで、マシンだとこういう欠点があるけども、こういうことになる。どっちを取りますか?僕だったら色を付けたほうが良いと思いますよ。」っていう話をしたんだよ。そしたら本当にその数日後、数日後にその当時、一台いくらだっけ、その当時ワーナー・ブラザーズのCG部門が持ってた良いコンピューターがあって、それをね、十何台かな、買ったんだよ。その当時僕らはまだMacintoshの一般用のコンピューターを買って使ってるっていう様な状況だったから、それをいきなりものすごい高いコンピューター使ってやるもんでびっくりした。それで、CGを使ってやることで無事に色がついたと、いうのがもののけですよ。その時にうちが関係していた仕上げの会社があって、そこも一緒になってコンピューターのランクアップをして、そのお手伝いをしたということもありましたね。
○あとはテレコム・アニメーションといえば、大塚さんですね。何か大塚さんについて一言聞きたいのですが、時間があまりないのですけど、言いたいことがあれば。
●言いたいことはね、大塚さん自身がバラエティーの人なんだよ。もちろんアニメーターとしての腕はものすごいのね。それで、大塚さんはね、作画監督とかやってる時でも、型にはめないんだよね。ここでは、フランスでは考えられないと思う、アメリカでもとても考えられないんだけども、人の絵の上に手を加えて絵を完成させる、物によってはその人のオリジナルの絵を全部変えちゃう。それはね、アメリカでは絶対許されないんですよ。それが日本の作業なんだよ。日本ではそれを許しているんだけども、それでもやっぱり自分の絵を直されるわけだから、原画の人はね、作監が格段に上手ければ納得するけど、そうじゃない場合って「あいつは何で俺の絵を直した」って怒ったり恨んだりするんだよ。だけど、大塚さんっていうのはね、人の絵を直しても恨まれる事が全くなかったね。珍しい人なんだよ。大塚さんはやっぱりその人の絵をどうかして使う、で、できるだけ高いところに持っていくために最も効率の良い直し方をする、ということをやった人なんだよね。その他に日常的なことはね、非常にいい加減なおじさんに見えたんだよ。
まあ、机に座ってない。会社に来てもまずコカ・コーラを開けて、フラフラと人のところを歩きながら、仕上げだとか美術行って話をして、机に座って、ちょっと座ったと思ったらまたどっか出かけたりとか。で、お昼に出かけると、帰りにガソリンスタンド寄って、テレビゲームっていうかテーブルゲームがあったのね。そういうのをやって帰ってくるとかね。後は、そういう人なの。非常にねいい加減に見えたんだよ。ただ、集中度が高いから、仕事はちゃんとこなしてた。後はね、ジープを含めて色んな趣味があって、人を驚かす、驚かすっていうか面白がらせるの。宮崎さんもそういうのが好きでね、宮崎さんも後にね、オフロードのバイクを買ったんだよ、125ccのやつを。その頃僕は50ccのバイクに乗って会社に来てたりして、宮崎さんがその125のバイク出来て「危ないからやめろ」って僕は言ってたんだよ。宮崎さんはあんまり運動神経が良い方じゃないから。そしたらある時ね、包帯ぐるぐる巻きにして来て「竹内君、大変だよ。」って来て、もう見るからに偽物だってわかるんだよ。新しい包帯なのにズルズルなんだよ。キチンと巻けてなくて。ズルズルで解けてるの「宮さん、くだらないことやらないでよ。」って。それはだから、脅かすためにさ、包帯巻いてるわけ。事故はしてないんだよ。
それよりまた後に、夏に皆で海に行こうということがあったわけ。その頃は大塚さんも50㏄のバイク乗ってて、それで皆で海に行こう、その時大塚さん車で来たわけ。そしたら大塚さんが包帯巻いてきたわけ。また大塚さんだからさ、「大塚さんまた宮さんみたいなくだらないことやらないでください。」って言ったら、前の日にトラックに巻き込まれそうになって、転んで、それでここに擦り傷作ってたんだよ本当に。本当だったの。まあ、だから悪戯は大好き。
○大塚さんは新人アニメーターの教育をされていましたね。竹内さんもアニメキャンプのことを説明してくださいませんか?
●えっとね、僕は会社の社長でしょ。だから新しい人が入ってきて、アニメーターの教育をするっていった時に、できるだけ短い期間で動画マンという、動画のできる人にするのが会社にとっては一番良いと思ってたわけです。基本的にはそういう教育をテレコムではしてました。で、大塚さんもそれに乗っかって、研修期間ていうのは3か月あるので、大体最初の一ヵ月で動きの基本とかそういうものを教えて、それからはどうやって動画に適した絵を描くか、日本の場合は線画、トレス線がうるさいんですよ。非常に均一な線で描かなければいけない。で、うるさいので、そういう訓練を二ヶ月くらいするんですよ。その時には動画の人にお任せをして。ある年に大塚さんが、原画を描くよりは、これねゴブランの学生には最初っから「動きってこういうものだよ、動きを大きくしたほうが皆が納得するようなものになるよ。」というような講座を開いたんですよ。それと同じようなことをテレコムでもやったわけよ。その時僕はどちらかというと反対だったんですよ。というのは、入って新人だから、いきなり原画を描くというのは日本ではないわけ。だから動画で入る。そうすると、動画で綺麗な線が描けないと仕事にならないんですよ。大塚さんは動きの基本というものをやってくれたので、動画の基本が出来てないから、そのあと結構かかったのよ。動画になるために。僕はテレコムの終わり頃から人材育成ということを始めてブートキャンプを始めたんだけど、それも最初はいかに効率よく動画の人を作るか、という風な考え方でやってきたんだけども、それだとアニメーションを根本からキチッと考えられる人が作れないからダメだと、やっぱりその原画的なことを最初から考えてアニメーションをやる人でないとその後成長できないと、いうことを思って、だからああ、大塚さんのやり方は正しかったなあということを思いました。今のブートキャンプというのはそういう意味で、自分たちがどんなものをやりたいかということを見つけて、それを講師の人たちがサポートをして、そうすると自分たちがやりたいこと、そこに足りない技術というのがわかってくるので、そしたらそこで技術を教えてあげるという風なやり方をしてます。それがブートキャンプ。
○今もコロナで続いていますか?
●去年の秋にね、新潟というところで直に机に皆がついてやったんですよ。2Dと3Dと両方。僕らにとっても久しぶりで良かったし、そこの学校の学生さんにとってもとっても良かったので、もう一回そういうのをやってくれという話があって、また今年、そこの学校を中心にしてやる予定です。
○アニメーターの先生は誰でしょうか?今年の
●今年はまだ決まってない。去年はね、稲村さん(注*17)、後藤さん(注*18)、それから新潟にI.Gという会社があってそこから3人、それからりょーちもさん(注*19)、3DCGが、名前忘れちゃったな。
○小森さん(注*20)?
●そうね、小森さん。後は富沢信雄さん(注*21)。
○ アニメミライ、あにめたまご、あにめのたね(注*22)になったんですね。紹介してくださいませんか?
●それは、プロのアニメーターをよりよい環境で育てようという国の事業で、アニメミライ、あにめたまごはほぼ同じような形、一つの会社に20~30分くらいの一本の作品を作ってもらう。その作品を作る中で、特に原画と言われる人たちを育てようと。育てるために、こういったカリキュラムを組んだらいいんじゃないかということで、カリキュラムを組みながら、実際に現場でやることとそれからもう一つは学校みたいに課題を出してやることと、その両方を並行してやっていって、大体六か月から八か月くらい、その中で今よりもワンステップ上の原画能力を持った人たちを作ろうと、いう風な企画です。僕はそれにアニメミライの時には、うちの会社が応募して作品を作るということで関わらせてもらって、それからあにめたまごっていうのになってからは、ディレクター的な立場でどういうカリキュラムが良いのかっていう、カリキュラムを作って、入ってきた会社のひとたちが上手く育つようにっていう風なことをやりました。あにめのたねは僕は関わってないので、知らないんだけども、アニメの種は逆にもっと短いものを作ろう、その中で育成をしようという事になってるはずです。
○アニメーターの話ばかりしてきましたが、プロデューサーの話も少ししたいと思います。今は特に上手な新人プロデューサーはいますか?
●上手な新人プロデューサーがいるか?ごめん俺全然わからないや。だって現場を離れて10年くらいになるからね。だから、日本も会社を作って独立していく人たちがたくさん出てきてますよね。そういう人たちがやっぱり優秀なんだと思いますよ。I.Gなんかが結構そういう人を輩出してるんだけど、WITという会社だとか、それからWITからでたエイチプラスだっけ?本田さん(注*23)のとこ。
●プラスエイチ。
○プラスエイチか。そういうところはやっぱり独立心がある人、で、ジブリからも独立していったりとかね、西村さん(注*24)とかね。やっぱり独立してやろうっていうんだから、それなりの能力があるんだと思うんですよ。僕は、個人としては知ってるんですけど、その人たちが会社の運営をどうやってやっているのか、作品をどうやって作っているのかっていう細かいところは知らないからね。まあ、いると思いますよ。
○今日は誠にありがとうございました。本当に面白かったです。
脚注
*1 近藤喜文(1950–1998) Aプロダクション/シンエイ動画から大塚康生に師事し、宮崎駿の『未来少年コナン』(原画)、高畑勲の『赤毛のアン』で(キャラクターデザイン・作画監督)務めるようになる。1988年にスタジオジブリに入社してから1998年に早逝するまでの間、スタジオジブリの3番目の主要クリエーターとして、2人の先輩の右腕として活躍しました。
*2 大塚康生(1931–2021) 1950年代後半の東映アニメーション時代から2021年に亡くなるまで、何世代にもわたってアーティストを育てた日本アニメーション史上最も重要なアニメーターである。日本におけるエフェクトやメカアニメーションの発明者の一人であり、宮崎駿の師匠と親友であった。
*3 『未来少年コナン』1978TVシリーズ、日本アニメーション作品、宮崎駿監督。総監督として宮崎駿の最初で最後のテレビシリーズで、キャラクターデザインは大塚康生、作画は後にスタジオジブリに入る複数のスタッフが担当した。一般にこの年代のテレビアニメシリーズの中で最も優れた作品の一つと考えられている。また、この作品は宮崎監督の体力が試される作品でもあり、当初は一人でシリーズを進行しようとしたため、制作スケジュールに何度も遅れました。
*4 『赤毛のアン』1979 TVシリーズ、日本アニメーション作品、高畑勲監督。高畑監督の世界名作劇場3作品の最後のシリーズとして、『コナン』のチームと一緒に作った作品。『コナン』と同じく、高畑監督の極めて高い完璧主義が、スケジュールやスタッフの健康状態に影響を及ぼす、極めて難しい作品となった。
*5『母をたずねて三千里』1976TVシリーズ、日本アニメーション作品、高畑勲監督。高畑監督の世界名作劇場の2作目は、イタリアのネオリアリズムの影響を受けた社会派作品として有名である。次世代のアニメーターに大きな影響を与えた。
*6『あらいぐまラスカル』1977TVシリーズ、日本アニメーション作品、遠藤政治、斎藤博、腰繁男監督。 海外では忘れ去られていたマスコットが、日本では大きなインパクトを与え、1970年代後半にアライグマブームを巻き起こした。
*7『じゃりン子チエ』1981映画、東京ムービー新社作品、高畑勲監督。キャラクターデザインの大塚康生さんをはじめ、『コナン』と『アン』のチームを集めたスタッフ。
*8 小田部羊一(1936-) アニメーター、キャラクターデザイナー。1960年代半ばから1970年代半ばまで、東映アニメーション、Aプロダクション、日本アニメーションで高畑勲、宮崎駿と結成したトリオの3人目のメンバーとして活躍。1985年、任天堂にスカウトされ、『スーパーマリオブラザーズ』を中心に複数のイラストやデザインを提供した後、アニメ業界を離れた。
*9 『リトル・ニモ』1989映画、日本アニメーション作品、波多正美、ウィリアム・ハーツ監督。 ウィンザー・マッケイの同名コミックを映画化したこの日米合作映画は、史上最も呪われた映画のプロジェクトに数えられる。1970年代半ばに始まったこの映画は、日米双方のアニメーションと映画界の偉大なアーティストたちがこのプロジェクトに取り組み、去っていった後、10年以上経ってから完成したのである。
*10 藤岡豊(1927–1996) 1964年から1991年まで東京ムービー/東京ムービー新社のプロデューサー、会長。ビジョナリーのプロデューサーとして、東京ムービー新社を日本で最も成功したアニメスタジオのひとつに育て上げ、欧米との共同制作の先駆者となった。『ニモ』の失敗の責任を取って1991年に退社。
*11 波多正美(1946-) 監督。1970年代後半から1980年代前半にかけてサンリオのアニメーション部門に関わり、『シリウスの伝説』やミュージカルアニメ『妖精フローレンス』など豪華な作品を手がけたことで知られる監督。
*12 ウィリアム・ハーツ(1919–2000) アメリカのアニメーター、監督。1940年代のディズニー・アニメーション、そして1950年代のユナイテッド・プロダクション・オブ・アメリカ(UPA)での活躍が有名である。ディズニーのアニメーターであるフランク・トーマスとオリー・ジョンストンの推薦により、『ニモ』の制作に携わる。
*13 友永和秀(1952-) アニメーター。1970年代のメカアニメーションに資たし、スタジオテレコムの重要なアーティストの一人として有名である。『コナン』『ルパン三世 カリオストロの城』『シャーロックハウンド』などで宮崎駿とコラボしましたし、『ニモ』では総作画監督に参加しました。
*14 出崎統(1943–2011) 監督。アニメ史上最も重要で影響力のある監督の一人で、独自のスタイルで有名である。マッドハウスの設立メンバーの一人で、1980年に退社したが、1970年代から1980年代にかけては、しばしば東京ムービー新社と仕事をした。
*15 杉野昭夫(1944 — ) アニメーター、キャラクターデザイナー。スタジオマッドハウスの設立メンバーの一人で、出崎統監督とのコラボレーションで有名な方です。共演した代表作に『あしたのジョー』『エースをねらえ!』『家なき子レミ』『宇宙冒険コブラ』『お兄様へ』『ブラックジャック』などがある。2019年も杉野はまだアニメーターとして活躍中。
*16 保田道世 (1939–2016) スタジオジブリの仕上部のチーフで、1960年代後半の東映動画時代から高畑勲や宮崎駿の協力者であった。色彩設定としての代表作に『赤毛のアン』『風の谷のナウシカ』『天使のたまご』など、1985年から2013年までのジブリ作品のほとんどを手がける。
*17 稲村武志(1969-) アニメーター。スタジオジブリの元メンバーで、現在は新海誠監督や細田守監督とよく一緒に仕事をしている。
*18 後藤隆幸(1960-) アニメーター、キャラクターデザイナー。プロダクションIGの共同設立者兼元ディレクター。
*19 りょーちも(1979-) アニメーター、キャラクターデザイナー。 2000年代半ばに起こった「ウェブジェンネレーション」ムーブメントの中心人物のひとりとされる。代表作に『鉄腕バーディー DECODE』、『夜桜四重奏』シリーズ。
*20 小森啓裕(??) CGIアニメーター、監督。2016年に映画『ガンバと仲間たち』を監督しました。
*21 富沢信雄(1951-) スタジオテレコムのアニメーターで、現在もルパンシリーズで活躍中。1970年代後半から1980年代前半にかけて、高畑・宮崎両氏としばしば共同制作を行った。
*22 アニメ未来、アニメ卵、アニメの種 日本アニメーター・演出協会(後は日本動画協会)が文化庁の助成を受けて開始したアニメーター育成プログラムの歴代名称。
*23 本多史典(1980-) プロデューサー、元プロダクションIGのメンバーで、2020年にstudio +hを作り、磯光雄のシリーズ『地球外少年少女』のプロデューサーを勤めた。
*24 西村義明(1977-) プロデューサー、元スタジオジブリのメンバー。2015年にスタジオポノックを設立。
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