このような伝説の人物に会う機会があったのは、第2回新潟国際アニメーション映画祭のときだった。富野監督はエネルギッシュで親切で、海外の人と自分の作品や映画への愛について喜んで語った。
聞き手: ジョワイエ・ルド、ワツキ・マテオ
協力: ワツキ・マテオ
編集協力: 前田久
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Q:富野監督は物語と世界観を作るのが非常に上手だと思いますが、それなのにどうしてロボットものしか作り続けないのでしょうか?
富野: 他の仕事がなかったからです。
Q:オファーが来ていないということですか?
富野: まったくそうです。それと僕には基本的に作家的な能力がないという自覚がありましたので、「巨大ロボットもの」というジャンルがあったので、それを切っ掛けにして物語を作るということだったらできるのではないのかな? ということもあって、巨大ロボットものを専門に作るというところに行ってしまったのです。ですから、あまり希望している方向性ではないんだけれども、自分の能力ということを考えた時に他の方法はできなかったのです。だから僕にとっては宮崎駿という監督は敵でしたが、絶対に抜くことができない方が同じ時代にいたという意味ではとても励みになりました。
Q:でもね、富野監督は大ヒット作を作ってもサンライズでは自由にはなかなかなれないのではないでしょうか。どうして他のスタジオでも働こうとは考えなかったのでしょうか?
富野: サンライズという会社は純然たるアーティストの集まりではないわけです。製作者の集まり。そうすると僕程度の……アーティスティックな能力がない人間でも採用してもらえたのです。で、他のプロダクションに行きますと、別の作り手がいて、そういう方とは競合できなかったのです。
Q:でも宮崎監督はアーティストじゃなくて職人さんじゃないんですか?
富野: 違います。
Q:違いますか。
富野: 職人だったら今回の『少年とサギ』(『君たちはどう生きるか』)みたいなアニメーションは作れません。そういう意味では、あなたたちの方が認識不足です。あの方は作家です。だってアニメーションでハッピーエンドを作らなかったんですよ? あれはなまじなことでは作れません。だから僕の気分でいうと、ちょっと比較する作家ではないかもしれないと思うんだけども、ヴィクトル・ユーゴーに匹敵するんじゃないかな? ただし今回の「少年とサギ」に関してです。僕は他の宮崎監督の作品はあんまり好きではありませんから。
Q:宮崎監督の作品には、いつも原作がありますよね。
富野: あります。だけど今回の場合は必ずしも原作に沿っているわけではないということも含めて、かなり自伝的な作品だったのだと思っています。
Q:『君たちはどう生きるか』ではなくて、別の小説を引用したんですね。
富野: それは知っています。そういう意味では原作付きの作品だってこともきちんと公表していますから悪いわけではありません。むしろ重要なことは、ほとんど映画って原作がありますよ。オリジナルの映画の方が少ないものです。
Q:『機動戦士ガンダム』や『伝説巨神イデオン』は?
富野: それは僕みたいに中途半端な作家的な能力がなければ、『イデオン』や『ガンダム』は絶対に作れません。ロボットものが好きなだけでは作れません。そういう意味での自信があります。
Q:話がちょっと飛びますが、映画の話というと『幻魔大戦』はもともと富野監督が監督を担当されるはずだったそうですけど。
富野: 嘘です(笑)。そういう風な原稿を見たことはありますけれども、僕は喋っていません。『幻魔大戦』に関して言うと原作者の平井和正さんとは知り合いです。知り合いですが、その方の本性みたいなことがわかった時に、絶対に手をつけちゃいけないものですから、やる気はありませんでした。
Q:お二人はオカルトや超能力的なものがお好きなんですね。
富野: ニュータイプのことをある部分そういう風に捉えていらっしゃる人もいるし、『イデオン』を公開した時は、そういうグループからのコンタクトもありました。けれども違います。ものを考えるという認識論を究極的に突き詰めていくとひょっとしたら、オカルトチックなところに行くかもしれないという可能性は認めます。だけど、それはあくまでも心理学論として認めているということであって、オカルトというところには絶対いっていません。現に『イデオン』の場合……(苦笑)。ラストシーンがあるから、幽霊のオンパレードになってるシーンを作っちゃったらオカルトかもしれないと思われていますけど、あれは根本的に違います。実写だったらあれはやれないんです。アニメーションという媒体、絵というものだから、あれくらいまで表現しないと伝わらないだろうなという部分があってやったことで、必ずしもオカルトチックに考えていることではないんです。霊的なものに対しては、我々には憧れという部分があります。あるんだったら逆手に利用してこういう風に物語を締めるという方法があるんじゃないのか、ということを、巨大ロボットもののストラクチャーを使っていきながらやってみせたという作品です。今みたいに見られて評価してくれている評論家は一人もいません。どういうことかというとメカ好きのファンは、『イデオン』でさえ、ただの巨大ロボットものという規定でしか考えていないからです。
Q:実は、そのことについて質問があります。「イデの力」というコンセプトはフロイトのイドから来ていますか?
富野: もちろんそうです。だってイデオンという固有名詞がそうじゃないですか。なのに今あなたが言ったような質問の仕方をするアニメ評論家は一人もいなかったんですよ。気がつかないのです。
Q:本当ですか?
富野: 本当です。
Q:いわれてみれば、僕のオタクの知り合いも全然知らないですね、そういうことは。
富野: そういう意味で不勉強なのですね。「せめてフロイトの一冊くらい読んでおきなさいよ」という気分があります。
Q:フロイトの著作は、富野監督はすべて読まれているんですか?
富野: 僕はそれほど勉強ができる人間じゃないので二、三冊しか読んでいません(笑)。
Q:精神分析を受けましたか?
富野: 自分の精神分析をしました。その結果、どういうことが起こったかというと、『イデオン』を……特に劇場版の最後の仕事をやっている時に、僕は自分で「気が狂うかもしれない」ということまで覚悟しました。そのくらい怖かったのです。人間の欲望とか人間の精神の問題に隣接したところでものを考えていくと、自殺したくなるぐらいのところまでいきました。その状態を突破できないとすら思いました。けれども突破できたのは、アニメーションという媒体であったために、必ずしも、リアルに自分の身体性に全滅論みたいなものを受け止めないで、アニメーションという媒体がクッションになってくれて、生き死にのことも絵空事にしてくれたからです。本当に命拾いしたと思っています。
だけど四、五年前に『イデオン』を全部見返して自分でもびっくりすることがありました。それは、今みたいな言葉遣いで『イデオン』を観たときに、やはりとんでもなくすごい作品で……実を言うと、作ってはいけない作品だったのではないのかな? という反省はあります。
Q:ええっ?
富野:あそこまで正面切って全滅の話をした映画っていうのは、おそらくそんなにないんじゃないのかな。容赦なく知的生命体の全滅ですからね。
それで終わらせていった時に、絶対的に言ってしまえば、ニーチェの世界に突っ込むかもしれない。それが嫌だったんです。それをさせないためにどうするか? といった時に、結局ああいう風な形で終わらせていけば映像的に綺麗に見えるから、リアルなところには踏み込まないで済むと思ったわけです。逆にその想定もあったから、あのシーンに行くまでのところで全滅のシーンというものを遠慮会釈なく作ったというわけです。ですから、こういう非難を受けています。「なんで子供の首を飛ばしてしまったんだ!」って。でも、あれがなければラストシーンがないんですよ。
そして、なんで大人の首を飛ばしてもお前ら何も非難しなくて、子供の首が飛んだだけで非難する、それはおかしくないか? というのもあります。だから『イデオン』では特に人間の戦争論っていう問題の絶対的なものを描いたつもりでもあるわけです。本当はプーチンがあれを見てくれていれば、戦争はしなかったんだろうなと思います。
Q:このフロイトのお話に戻ると、フロイトの概念を使うアイデアはどこから来ましたか? もしかして、映画の『禁断の惑星』が大好きだからですか?
富野: 『禁断の惑星』が出てくるとは思わなかったなぁ(苦笑)。フロイトは僕は高校時代に『夢判断』から読み始めたんです。だからあんまり繊細にフロイトの分析論っていうのを承知しているわけではありません。今の話で『禁断の惑星』が並行的に語られているのでちょっとびっくりしてるんだけれども…なんで『禁断の惑星』が出てくるの?
Q:SFが大好きで(笑)。『イデオン』も『禁断の惑星』も名作ですから……。
富野: あのね、名作なんだけれども……『禁断の惑星』はあのエンディングにいくプロセスが全くなくて、いきなりあそこにいってて、すごく子供騙しな作りだと思ったんですよ。あれを解消したかったというので、確かにそれをかなり意識して『イデオン』をやりましたね。ですから僕は『禁断の惑星』は、あのイドのところがない限り、それまでは大好きな映画なんです。イドが攻めてくるところで、鉄の壁を溶かすところがあるんだけど、あそこのワンカットがものすごく気にいらないんです。
Q:そうですか。
富野: はい。灼熱になったところで鉄の壁がコロッとこぼれる時に、向こうからつついてるな! っていう感じが見えるんで、ああ、これはダメ! 本当はリアルに落ちなくちゃいけないのに! って、本当にゲッソリしました。
……というのはさておいて、ああいう展開にして描かなればいけないイドの問題というのは、実はものすごく深刻な問題です。まさに人間の深層心理にある衝動みたいなものをどういう風に映像化していくかということを、確かに『禁断の惑星』から教えられました。教えられたからこそ、その部分の記憶があるから『イデオン』ができたんです。だけどさっき言った通りで、あのラストシーンをやると決めた上で、演出をしていく時にリアリズムでどこまでやるか? そう考えたら、リアルな殺戮シーンというものを手抜きでやってはいけない、正面切ってやらなきゃいけない。そうでなければ、カララの顔に弾が当たったとかっていう、ああいう風な絵は作りません。それを作れたのも、あのラストシーンの受けがあるからなんですよ。そういう風な構造で製作したのです。『禁断の惑星』にはその段取りが無いんですよ。本当に僕も忘れてた。そんなに『禁断の惑星』が影響力があったんだっていうのは、ちょっと悔しいな(笑)。
Q:さきほどもお話にでましたが、富野監督は映画はハッピーエンドでなければいけないとお考えですか? 『イデオン』を観てもそう感じるのですが。
富野: いえ、映画を見ていて思うことがあるのは、悲しい映画というか、実存主義的な映画もとても好きだった時期もあったんですけれども、そういう映画ってやっぱり楽しくないわけですよ。女性のヌードが出ていても、それが実存論に入った時に「ネエちゃんの体だけでやめてくれ!」という気分があります(笑)。
ですから『イデオン』は、ああなりました。それだけのことです。だからそういう意味でいうと、やっぱり映像作品というのは厳然として演劇と同じで、悲しみを売るという作品論もあってもいいわけです。観客を泣かせることによって観客自身が精神的にもカタルシスをしていくっていうような浄化作用もあるわけですから、そういう存在も認めます。けれども基本的にはエンターテインメントっていうのは何なのか? って考えたときに……またなんかすごく変なこと思いついちゃった(笑)。
Q:なんでしょう?
富野: フランスに行った時、パリのCrazy Horseに行ったことがあるんです。やっぱり好きですもん(笑)。だからエンターテインメントというのは、やっぱり解放感を持ちうるお楽しみです。巨大ロボットものやモンスターもので、破壊だけで気が済むっていうのが大嫌いなんです。お楽しみだから何でもやってもいいわけではないんですよ。やはり最低限の基準というものがある。それが何なのかというと、やはり時代性であったり、風俗、民俗による違いみたいな部分を完全に全否定するのか全肯定するのかということも含めての軸足をきちんと取っておかないといけないという思いがあるんです。
僕は本当に映画を観てない人間なんですけども、最近観た映画でいうと、実写でもここまでファンタジーができるんだったら許されるなという映画は『Poor Things』、日本のタイトルが『哀れなるものたち』。あそこまで作れればいいよなぁ、って思いますね。
まだ僕は『オッペンハイマー』は観てませんけれども、大体の構造はわかりました。ようやくあの人、一人前の監督になった気がしています。だけど『オッペンハイマー』は楽しくはないでしょう。楽しくはないけど、事実を捉えるという意味での目線はかなり正確なんじゃないのかな。そうなったときの映画の持っている発言力というか、告知能力というか、みんなに宣伝する能力というのはものすごく高いと思っています。だから今回日本人が一番『オッペンハイマー』で誤解をしていることがあるのは、あれを原爆の映画だと思ってることなんですよね。
Q:だから日本で公開されるまで長い時間がかかった?
富野: そうです。だから本当に配給会社もひどい映画だと思ったのでしょうけど、作品を読む力がなかったんでしょうね。つまり人の問題で、オッペンハイマーがどれだけ天才的な物理学者であったか、にもかかわらず、最終的に戦争が終わってみたら、完璧に社会からスポイルされた存在です。それは、軍と兵器の問題の関係性というものを自分が主導せざるを得なくなってしまったという不幸があるということ。そういう問題をようやくここのところで映画界も発表できるようになったという意味では、価値のある作品だと思っています。
Q:富野監督の作品でも戦争は大事なテーマですね。作品を見ると、富野監督ご自身は戦争反対だと思いますが、その作品の中に暴力で戦う必要があるシーンはあります。
富野:あります。
Q:戦争に反対であっても、暴力はある時には必要だということでしょうか?
富野:多少、自分の中にある作劇能力としての暴力主義というのは認めます。もう一つ重要なことは、映画っていうのは基本的に「ムービー」なんですよ。つまり「アクション」。そうするとストーリーそのものも、運動的なものでなければならないアクティブな部分を持っています。だからスピードと破壊力があることは認めます。
だけど先ほども言った通り、僕は必ずしもモンスターものが好きではない。一方的に破壊だけを描いちゃって、それで気が済んでいるという意味での制作者側のメンタリティを考えた時に、ドラマは考えてないよね? っていう作品がかなり見受けられるでしょ? 映画の大事なことは、エンターテイメントなんだけど、やっぱりドラマをアピールできる媒体なんだっていう部分を正確に捉える必要があります。だけどアクション好きの人たち、それからモンスターものが好きな人たち、あと戦争ものが好きな人たちは、なんでここまで戦闘だけを描いていて気が済むんだろうか? だけど承知しています。僕自身も戦闘シーンが多いっていうのはわかってます。
Q:それで戦争は終わらない気がします。『ガンダム』と同じく、永遠ではないですか?
富野: 実を言うと、『ガンダム』には戦争以外に、もう一つやっていることがあります。それは「地球という有限の星で人類が永遠に生存する方法がないか?」というテーマです。これをそろそろきちんとリアリズムで考えていかなくちゃいけないんだけれど、その言葉遣いを発明できていないのです。
『ガンダム』が始まる2,3年前にローマクラブで石油があと80年くらいで無くなるかもしれないという言い方もあって、有限な地球論というものが浮上してきた。でも、今年になってもローマクラブから発信している言葉が、言葉としては流れてはいるんだけれども、現実的に政治に反映されることはほとんどありません。その意味で、我々は愚かな政治家たちの中にいる。「政治家」の中には宗教家も入ります。
そういう部分をもっと自覚的に見て、自分たちが見渡さなくちゃいけないという時代が本当にきているんだということは、アニメというジャンルだから話ができるんです。これ、リアリズムのところに足を踏み込んでいったら、こんな話は絶対できません。
Q:話題は変わりますが、『無敵超人ザンボット3』の人間爆弾のモデルはロッド空港の虐殺なのでしょうか?
富野: 爆弾を抱えている人間の話は、第二次世界大戦の日本の時からもありましたから、特にそれという視点ではないですね。あと古い日本の歴史を知っていると爆弾三勇士という言葉があるんです。三人の兵隊が爆弾を抱えて突っ込むという、そういう話から始まっているので、僕にとっては特段のことではなかったのに、「子供向けのアニメでこれをやっているのが酷い」ということで、制作会社から叱られました。叱られましたけれども、つまり巨大ロボットもので破壊シーンを永遠に作っていて、そこに触っていないのはおかしいという、それだけのことです。僕にとっては当たり前のことだったのです。だけど当たり前のことをやった結果、富野は戦闘主義者だし、右翼だし、軍国主義なんじゃないかって言われているんだけれども、根本的に違います。むしろ破壊というものを正確に理解していった時に、破壊論の持っている問題というものをきちんと描く必要があるんじゃないのかなと思っています。ということで、『ガンダム』の話がしたいんですけど、時間がないそうなので、しません(笑)。
Q: すみません(笑)。最後に作風について聞きたいのですが、80年代の前半から富野監督の作風が変わったと感じています。脚本や編集から変化しているような気がします。その前はもっと直接的に話を見せていましたが、後でもっと驚かせているセリフがあったり、カットの間につながりがなくなることもあります。それはもしかしてフランス映画のヌーヴェルヴァーグの影響じゃないですか?特にゴダール。
富野: 僕は、ゴダールはあんまり見ていないんです。ただゴダールに関して言うと、一本目の『勝手にしやがれ』だけは徹底的に好きです。そして映画作家としての特異な才能っていう感じも了解はしているので、影響がないとは言えないんだけれども……ヌーヴェルヴァーグの全体の動き自体があんまり好きじゃないんですよ。どうしてかっていうと監督、つまり作家のエゴが見える部分があって、それがさっき言ったエンターテインメント論で考えたときに、個人主義になりすぎているので、ちょっと嫌だなと感じているのです。
でも、一つだけはっきりと、ヌーヴェルヴァーグの影響があるのは、フランス人の女性の役者のジャンヌ・モロー。『死刑台のエレベーター』の。あの人はとても好きなんです。それからゴダールの映画の時のジーン・セバーグ。彼女はアメリカ人なんだけども、こちらも好きです。
そういうようなことから、なんでフランスからこういう作家が出てきたのかという部分で、フランス人の土着性があるという感じがしてるんです。なぜフランスの土着性ということを考えるようになったかというと、フランス革命をちょっと調べた時期があったんです。フランス革命とはなんでああいう風に起こってきたのかって。王侯貴族と市民との問題っていうようなところで、なんで王侯貴族があそこまでのとんでもない宮殿を作ることをやってしまっていたのか? どうもフランス人ってまわりを、一般市民を見てないらしい。もう一つ、フランス人ってやっぱり一色じゃないんだと。かなりいろんな人種が入り込んでて、実を言うとフランス人はいないらしいっていうところまで来ました。やっぱり混交のところで、つまり中央ヨーロッパという地勢の中で、みんな、その場しのぎの生き残り策をやっていかなくちゃいけないっていうことがあったのではないか? と思うようになりました。
だけど調べていくうちに、僕にとって一番わからなかった人物がいるんです。ロベスピエールです。「こういう風に独善的にやれる無定見さって何なんだろうか?」と。未だに分かりません。未だに分からないんだけど、今のプーチンを見ていて分かったことがあるのは、プーチンがロベスピエールのことを知っていたら、絶対ウクライナには行かなかったかもしれない。
この軽率さは何なんだろうか? って考えた時に、周りに異民族がいる中で自分が統治者になって、自分の勘だけでやっていかなきゃいけない過酷さもあったんじゃないのかなという風には考えるようになりましたね。
Q:それはつまり、プーチンは『機動戦士Vガンダム』を観るべきだった?
富野:そう。そういうようなことが、結局、僕の場合は『ガンダム』を作る上で今言ったようなことを考えて、全部入れていく作業をしていったんです。だから、巨大ロボットものとは言いつつ、飽きずに20年間作れたんです。だけど20年やった時に思ったのは、「ああ、戦記ものしか作ってないから、これは年齢的にももう無理だな……」と。飽きたんです、戦記ものに。それ以後どうするかということを考えるっていうのに、また20年後に『Gのレコンギスタ』みたいなものを作って、今日まで来ました。その時に、自分が死んでいくことがわかり始めたので、もう一つ何か作りたいなという気分はあるんだけども、何ができるかはわかりません。
今ここでお話ししたようなことが僕の中ではダーッとあったのは、僕はゴダール嫌いだって言いながら、困ったことに『勝手にしやがれ』は十年に一回ぐらいは必ず見ますね(笑)。 ラストシーンの無様な作り方も含めて、下手なんだけども、まあ、いいか! って。好きですね。そういう意味では『禁断の惑星』よりはるかに好きです。つまりジーン・セバーグっていう女優さんもそうだし、ジャン・ポール・ベルモンドもそうなんだけども、人としての色気がある。エロキューションの部分が本当に素敵だなというので、ゴダールという人は間違ったんじゃないかと僕は思っています。頭が良すぎるためにちょっと知性的なところに行ってるんだけど、「お前もともと女好きなんだろ」って、「女だけもっと追いかけりゃいいのに、なんでああなっちゃったんだろうか」って。巨匠になっちゃったのがすごく気に入らないんです。
Q:おもしろいです(笑)
富野: 間違ってる?
Q:絶対正しいと思います。
富野:まさか今日はこんな話ができるとは思わなかった。さっきちらっと言った『死刑台のエレベーター』は本当に好きなんだけれども、監督っていう仕事が大変だなと思ったのは、『死刑台のエレベーター』の後の『地下鉄のザジ』。何を言いたいかというと『死刑台のエレベーター』ぐらいシンプルに、ああいう恋愛劇でありながら事件様があってっていうのがやれるルイ・マル監督が、その後、監督を続けていくときに、あそこまでウロウロしちゃうっていうのが、「きついな〜」っていうのがね。かなり映画監督っていう仕事は、警戒しなくちゃいけない。かなりはっきりした方向性を持ってないと映画監督ってやれないんじゃないのかな? ってことを教えられた。それがルイ・マルって監督でしたね。……また違う、好きな映画の話をもう一つ思い出したからしていいかな(笑)。『アメリ』! あの映画を見たときはジーン・セバーグより衝撃的だった(笑)。映画ってのはああいうものだっていうのが実はありまして。でも『ガンダム』の話じゃないね、これね(笑)。
Q:大丈夫です。とても面白かったです。本当にありがとうございます。
富野: むしろこちらこそ刺激をいただきましてありがとうございます。だって、今言った通り、海外の方とこういう話をしたことないもん。だから本当にそういう意味で、それで何よりも同意もしてくださったし、足らないところも教えていただけました。本当にありがとうございます。
Q:こちらこそ、ありがとうございます。ただ、ベテランのアニメーターの友達に、「富野監督のインタビューをするなら怒られた方がいい」と言われていたんです。その点では失敗しました、ごめんなさい!
(一同笑)
富野: あのね、いつまでも若くないの!(笑)少し年寄りっぽくなったからね。
このインタビューは、全文を無料でご覧いただけます。
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