1980年代または1990年代のサンライズのアニメを見たことがあるなら、西村誠芳の作画を見たことがあるか、西村氏の名前を知っている可能性があります。アニメーターと作画監督として、西村は主にサンライズと協力している作画会社、スタジオダブの中心メンバーの一人でした。ダブは、東京ではなく福島県いわき市に設置されるという特殊性を持っていました。
西村氏は、『CITY HUNTER』、『ダーティペア』、『機動警察パトレイバー PATLABOR ON TELEVISION』など、サンライズの最も代表的な作品のいくつかを務めました。または、『機動戦士Vガンダム、『機動武闘伝Gガンダム』、『新機動戦記ガンダムW』のロテーションの大事な一人として、そして『機動新世紀ガンダムX』のキャラクターデザイナーとして、平成ガンダムシリーズの重要な役割を果たしました。
仕事場は東京外でしたが、西村氏はサンライズやダブに一番詳しいの人物であろう。西村氏と会って、1980年代と1990年代に遡りアニメーション制作と作画会社の秘密と手法を理解できました。
聞き手: ワツキ・マテオ
協力: セラキ・ディミトリ
日本語編集: 同心かりん、ワツキ・マテオ
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「それが後のスタジオダブに繋がるという事です。」
Q:最初は、どの流れでスタジオダブに入社したのか? それはご出身は福島県なのですか?
西村誠芳:いや、出身は長崎なんですよ。スタジオダブは福島のいわきにありますが大学が日本大学芸術学部の工学部といって福島の郡山だったんですね。大学の時、アニメサークルに所属していました。ファンサークル的なやつで、いわゆる漫研、アニ研みたいな感じなのですが、そのサークルの先輩がスタジオダブで動画の勉強をしてたんです。
それで1982年の秋にダブに見学に行ったのです。
それが『超時空要塞マクロス』[注1]の第一話の放送日だったんですよ。『マクロス』の放送日は日曜日だったんですね。その前の日の土曜日に行って、スタジオに一泊見学をさせていただいたのですが席が空いてたのでその時にダブでやってた『戦闘メカザブングル』と『太陽の牙ダグラム』の設定書の模写などをして、八幡社長に見ていただきました。それが一番最初のダブとの接点ですね。
この時はまだスタジオダブという名前ではなかったんです。スタジオダブという名前になったのは1983年の春だと聞いています。
で、最初のきっかけはそれだったんですね。色々あって、1983年の春に僕は大学を辞めたんです。辞めて就職しなきゃいけなくなって、一回長崎に帰っていました。就職しなきゃいけなかったですけど、その先どうするかも考えていなかったんです。アニメの仕事をやりたいなという気持ちもあったんですが、「長崎では無理だよなぁ」とも思って、「どうしようかなぁ」と、とりあえずバイトをやりながら食いつないでいました。
あの頃の「アニメージュ」はいろんな作画スタジオの募集とかが載っていたんですが、その中にスタジオダブもあったんですね。「あ、スタジオダブだったら去年の秋に行ってるんで、全く知らないとこよりは敷居が低い」と思いました。「ちょっと出してみようかな」と思って出したら、社長から電話をいただいて、「長崎から東京を通り越して福島のスタジオに就職志望はどういうこと?」と言われました。「実は去年の10月にそちらにお邪魔して絵を見ていただきました」という話をしたら「あっ覚えてる。」でとおっしゃって、「本当に「よかったら来なさい」みたいな感じで言われました。それが何月ぐらいだったのかははっきり覚えてないですけど、6月とか7月ですかね。9月からダブに入って仕事を始めました。
Q:大学のアニメサークルで同人アニメを作りましたか?
西村誠芳:作りましたけど、それはもうほぼ紙芝居でした。まったく動かし方が分からなかった。いろんな人がアマチュア時代に作ってたアニメがあるじゃないですか。もう冗談じゃない、端にも棒にもかからないレベルのやつですね。原画も動画も何もわからないし、ほとんど動いてなくい。でも同じ学年にそういうことをやろうと言って引っ張っていく奴がいたんですよ。そいつがいなかったらそれすら作ってない。
Q:そのフィルムはまだ残っていますか?
西村誠芳:少なくとも僕は持ってません。昔はね、ビデオに起こしてもらったものがあったんですけど、ベータテープを処分する時にうっかり捨てちゃって、なんか2年後ぐらいに「あっ!」て思い出しました。(笑)
Q:残念ですね。
西村誠芳:いや、見ないほうがいいですよ。(笑)
Q:ダブの本社は福島県ですが、サンライズはもちろん東京にあります。交通はいかがでしたか?全て電話でしましたか?
西村誠芳:基本的には、打ち合わせは東京まで社長が車を出していました。社長の八幡さんのことは調べてます?
Q:ちょっとですね。昔は虫プロのアニメーター、でサンライズの方に、、、
西村誠芳:そうです、そうです。虫プロからサンライズで、サンライズの設立にも関わったらしいです。例えば『超電磁ロボ コン・バトラーV』とか『超電磁マシーン ボルテスV』とか『闘将ダイモス』とか[注2]、あの辺の作品で「作画制作」というクレジットで名前が出てます。サンライズというのは基本的に制作の人員だけで作られた会社なので現場で働く人、作画とか演出とかは社員ではないのです。で、ダブの社長は元々虫プロに入社する時はもちろんアニメーター志望で受けたらしいんですけど、たまたま車の免許を持っててていたので、あの当時昭和30年~40年ぐらいは車の免許は誰でも持ってるわけじゃなくて、免許を持ってるだったらまずは制作進行をやってもらおうという事からの採用だったらしいです。
Q:タツノコプロで須田正己さんにも同じことが起こりました。(笑)
西村誠芳:やっぱり、車の免許を持ってるということで、車が運転できるだったらまず制作に行く。その時に「制作もやっとていた方が役には立つから」と言われたと聞きました。(笑)そこから始まって後の方では作画に移ったという事らしいです。サンライズ作画制作というのは基本的にアニメーターの、管理とかなんですかね。例えばこういうアニメ―ターがいるとかチェックしといてその時の状況で仕事の依頼をするとかだったようです。あと、当時のサンライズは海外にルートを持ってなくて、韓国は東映動画とかに抑えられてたので避けて台湾を開拓したと聞きました。それは八幡社長がサンライズをやめてからも、他の人たちがずっと引き継いで入れ替わりながら続けられていたようですね。
サンライズを離れたのは相当な無理をしていて体を壊してしまったというのが切っ掛けらしいです。それでいわきに移って療養しながら仕事を受けるという感じになったらしいです。八幡社長がそのような経緯を持つのでダブはサンライズとのつながりが強かったのです。多分あの時代にアニメの作画をやってる人は珍しかったのと時期的にちょうど最初のアニメブームが起きていた時期だったので、地元の学生とかアニメファンが来るようになったみたいですね。そういう中から動画をやってみたいという人とかが出てきたらしく社長が動画の指導をやりながらちょっとずつ仕事を受けたのが始まりのようでそれが後のスタジオダブに繋がるという事らしいです。僕が知っている範囲だと、今でも現役でやられている阿部美佐緒さんが高校生の頃から学校の後に来て動画を描いていたらしいです。なので阿部さんは年齢は僕の一つ年下なんですけど、アニメ業界的には大先輩です。阿部さんの最初の動画は1981年の『最強ロボ ダイオージャ』だったと聞きました。
僕がダブに入った1983年の9月の時点では、ダブにいたのは八幡社長とその他に原画としては古泉浩司さん[注3]と藁谷均さん、あと動画が阿部さんをはじめ7~8人くらいいたのかな。古泉さんと藁谷さんは『ダグラム』の最後のあたりから仕事を始めたらしいのですが動画経験なしに第二原画だったと聞いています。最初は八幡社長からレイアウトと動きの参考を何枚かをラフで渡されてそれを原画にしていたと聞いています。あ、最初はタイムシートも社長が付けていたと聞いた記憶があるので、最初は本当に二原としての清書から入ったみたいです。二原からスタートして、その半年後の僕が入社した頃には、「そろそろレイアウトからやってみる」という形でチェックを受けながらやってた時期だったようです。そういえば「初めてタイムシートまで付けた回が放送される」と言っていたのを聞いた記憶があります。ボトムズの35話か41話のどっちかじゃなかったかな?
Q:当時は西村さんが二原をやりましたのか?それとも原画ですか?
西村誠芳:最初は完全に動画です。確か、一番最初が『装甲騎兵ボトムズ』の31話です。あとは『聖戦士ダンバイン』ですね。あとは『巨神ゴーグ』もちょっとやりました。本当に最初はサンライズの仕事しかやってなかった。
Q:画は出来上がったとき、サンライズからの制作進行とかは東京からいわきまで来ましたか?
西村誠芳:いえ、宅急便ですね。
Q:でも画が失くされてしまったことはありませんでしたか?
西村誠芳:ない! さすがになかったと思います。ただ、宅急便が荷物を行方不明になったというのはたまにあったみたいで、その場合は大体後から出て来て、だから届くのが遅れたみたいなのはあったんですけどね。で、後々に外注で出した台湾の作画会社からの荷物が来なかったというのがはありました。
Q:ダブにはいろんな支部があったのですね。
西村誠芳:そうですね、東京とか。
Q:東京のはいつ頃設立されましたか?
西村誠芳:僕もはっきり覚えてないんだよなぁ。でも多分1987年頃です。他にも何ヶ所かに作りましたよ。例えば仙台。
Q:初めては仙台でしたか?
西村誠芳:最初は仙台だったかもしれないですね。
Q:東京もあって、あとは韓国もありました。
西村誠芳:韓国もだけど、一時期茨城、水戸ですね。水戸スタジオと福島の郡山スタジオというのもあったんですけど、まぁ、長く続かなくて。
結局仙台は結構長くやってたけど、それもなくなって、東京と本社だけが残りましたね。
あとはソウルですか。確か僕が辞めた後にベトナムでも作ってるはずです。ベトナムももしかしたらまだあるのかな。その辺になるとちょっと僕もよくわからないですね。
「僕はその時間があったら、修正を進めろみたいな感じでした。」
Q:西村さんは韓国のスタジオに行ったことはありますか?
西村誠芳:ないんですよ。韓国との仕事をやるようになったのは『F91』[注4]の時です。『F91』がとにかくこのままだと間に合わないという状態だったのです。公開は1991年2月か3月だったんですよね。で、1990年の9月ぐらいにの時点で作画が全然上がっていなくて、一番最初に作られた30秒ぐらいの特報のフィルムしか出来なかったと聞きました。このままだとやばいので、とにかく封切に間に合わないのは絶対に避けなきゃいけないことなので、ダブの社長が過去にそういう仕事をサンライズでやってた事を頼られて、韓国の方でなんとかやる方法を作れないかという相談を受けたのが一番最初だと思います。それ以前は多分海外を使ってないはず…あ、いや社長の過去の繋がりから台湾のスタジオを使った事少しがありました。
Q:韓国のアニメーターたちは動画だけをやってたんですか?
西村誠芳:二原からですね。レイアウトまでは確実に社内でやってました。それは僕が辞める時まで基本的には変わってないです。のちに何度か韓国の方のスタッフから「自分たちもレイアウトからやりたい」みたいな話があってやってもらったけど仕上がりを見たらやっぱり駄目でしたね。
Q:『F91』の話をすると、西村さんは作監の協力としてクレジットされてるんですが、具体的に作画のどんな部分を担当しましたか?
西村誠芳:『F91』の最初は原画だけの参加予定だったんですね。最初の作打ちが91年のゴールデンウィークで4月末とかに作画打ち合わせをして、その時に八幡社長から言われていたのは『F91』でダブでの原画は僕一人でやってほしいという話だったんですよ。当時『機動警察パトレイバー』のテレビシリーズも原画と作監をやってたんですけど、『パトレイバー』はもう終わりに近かったんで、その原画をまずやめて作監だけにして、この分を『F91』に回せないかということで最初にレイアウトから入りました。
『F91』は見返してないので結構覚えてないんですけど、最初の頃に自分で原画やったのはセシリーがエアポートで宇宙港で義理の父親だったかな?に攫われる、あそこにシーブックがガンタンクで突っ込んでいく。あそこでは原画をやってます。レイアウトと原画をやって、ただレイアウトは作監にばっちり、ガーッと直されてて、戻ってきたレイアウトを見てうわー、すげーと思いながら。
Q:そのパートの作監は村瀬さん[注5]だったんですね?
西村誠芳:だったと思うんですけどちょっと記憶が定かじゃない。
Q:聞いた話では、コロニーが誘われるパートは村瀬さん一人で担当されて、その後は北原さんが来て、その映画の残りを担当しましたが。
西村誠芳:とにかく、村瀬さん一人では制作が進まなかったという話は聞いてます。多分原画も遅れてたんだと思いますが。
他だとなんだっけな、あの子供たちがカプセルみたいなものに入ってあの中から出るまではレイアウトをやりました。
Q: コロニーから脱出するときですか?
西村誠芳: そうだと思います。原画は当時ダブにいた木口さんがやりました。でそこからもうあれですよ、9月ですよ。(笑) 結局全体の状況がやばいので、もうちょっと後半もやることになったという話をされて、韓国も使うという話もその時点であったとは思いますよね。「とにかくレイアウトと上がってきた原画のまとめをやってくれ」と言われました。これはいわゆる作監補佐として、直したものを村瀬さんなり小林さんなりが見てくれるんだろうなと思ったら、見ないと言われて、「嘘でしょ!?」(笑) だってその時点でもうそんな仕事やったことないというか、テレビの作監しかやったことなかった。
Q:劇場版は違いますよね。
西村誠芳:だけどやるしかない。で、僕と藁谷さんと佐久間君の三人でレイアウトをとにかく上げてそれを韓国に出しました。その時に韓国に飛んでもらうかもしれないという話を聞いて、パスポートを取ったのです。最終的に藁谷さんと佐久間君は韓国に行きました。僕はその移動時間があったら、修正を進めろみたいな感じでした。ただ韓国に行った二人はずっとスタジオで修正やっていたと聞いています。あとホテルに戻ったら寝るだけだったかな。なんか戻っても修正やってたという話も聞いたような気がします。そこまでやってなんとかフィルムも間に合わせてというのが『F91』ですね。
あの時はまだソウルダブじゃないんですよね。その時はあくまでも韓国のスタジオを使って数を上げるということですね。確かねKOREA双進というところで。『サイバーフォーミュラ』とかでもクレジットで出てますよ。
で、結局サンライズとしてはここまで量産ができるパイプを作ったんだから、このままもっとその量産できる体制を持続してくれという依頼が八幡社長にあったみたいです。結局このKOREA双進を母体としてにしてソウルダブが出来ました。だから1991年の途中でクレジットが変わってるはずです。多分『サイバーフォーミュラ』の前半はKOREA双進が出てて、途中からソウルダブに変わってると思います。
Q:『F91』の場合は劇場版とビデオバージョンの間、修正が入りましたね?その修正を担当された作監はどなたでしょうか?
西村誠芳:再修正は村瀬さんがやってるはずです。劇場でかかったやつでキャラを直しているものはそうだと思います。結局劇場には間に合わなくて後に回してソフト用に足したシーンに関しては全部かどうかわかんないけど、ダブでも随分やってます。それが修正を入れたとこもあるし、佐久間信一君が作監をやったところもあります。
「古泉さんはちゃんとカットの持つ意味とか芝居とかを考えて描いていました。」
Q:はい、ありがとうございます。サンライズはダブ以外、いろんな作画会社と仕事をしていまして、例えばアニメアールとか。
西村誠芳:そうですよね。
Q:作画スタジオの間では競争とかライバル心があったんでしょうか?
西村誠芳:交流は全然なかったんですけど、ライバル心はありましたよ。でももうアニメアールに関してはどうあがいても勝てねぇとしか思ってなかった。(笑)
だけどやっぱり刺激としては随分もらったし、真似できるところは真似しようみたいなところは随分ありましたね。
Q:さすがにアニメアールですね(笑)。で、ダブで西村さんの先輩は古泉さんだと思います。古泉さんのことを聞かせてください。どんな人でしたか?
西村誠芳:古泉さんはまず温厚です。めちゃくちゃ温厚、まったく怒らない人でした。ただ仕事に対してやっぱり厳しかったですね。僕は古泉さんが二原からちょうど原画になるあたりから近くにいましたが、どんどん上手くなってるのを脇で見てたという感じですね。
Q:古泉さんの作画の魅力とかいいところは何だと思いますか?
西村誠芳:仕事にものすごく真剣に取り組みます。一番はそれだと思います。最初の頃の自分はなんかコンテにあるからこう描きゃいいのかなみたいな程度で描いてたんだけど、古泉さんはちゃんとそのカットの持つ意味とか芝居とかを考えて描いていました。
Q:古泉さん以外に師匠とか影響を受けたアニメーターはいますか?
西村誠芳:古泉さんからも藁谷さんからも僕はめちゃくちゃ影響を受けてます。僕が入った頃にはちょうど八幡社長はもう作監だけに切り替えてたのでその原画とかレイアウトとかはあまり見てないんですけど、やっぱり社長の修正の影響ももちろん受けてます。あともしかしたら他に受けた影響が大きいのは塩山紀生さん[注6]と土器手司さん[注7]ですね。塩山さんにはこういう絵が描けたらいいなという魅力を感じていました。
Q:土器手さんだったら、西村さんは安彦先生[注8]の安彦系のアニメーターじゃないですか。湖川先生[注9]よりも安彦先生ですね。
西村誠芳:そのあたりは何とも言い難いところがあります。安彦さんの仕事では『ゴーグ』の動画をちょっとだけやってますけど、それ以外では直接的なところは全くないですね。湖川さんはちょうどその頃作画の本を出してたじゃないですか。僕はあの本を教科書として使っっていた時期があって。今でも家に置いてありますよ。もうボロボロだけど。(笑)なので絵に関してはやっぱり湖川さんからの影響もいっぱいあります。
土器手さんは、修正が上手いんですよ。あの当時は作監がは例えばキャラの顔しか直さない人ともいれば、ポーズから全部直しちゃう人もがいて、土器手さんは中間なんですよ。例えば動きの中の一枚の原画は使うけど、次の原画はポーズを変えるみたいなことをやるんです。全部直されていると自分の絵が何がダメでとかこうすればいいんだという取っ掛かりがちょっとつかみづらい。でも土器手さんの直し方だとこの絵を生かすに次は自分が描いた絵よりもこうした方がいいんだみたいなのが伝わってくるんですね。そうすると、じゃあこれを身につけよう、と。なので僕は割と土器手さんは心の中の先生だと思っています。
Q:当時は土器手さんはフリーだったでしょうね。自分のスタジオが無かった。
西村誠芳:多分サンライズの第四スタジオにいたんだとは思いますね。『ダーティペア』の頃は。
Q:では当時はサンライズで社員でやっていた?
西村誠芳:ではなくてあくまでも仕事場だったのだと思います。
Q:机はサンライズに有ったということですね。
西村誠芳:そうだと思います。その後はスタジオジパングというスタジオでも仕事をされていたようなんですが。サンライズの仕事の時ははサンライズに入ってとかだったなのかもしれません。その辺は僕もはっきりわかりませんが。自分はずっと地方で仕事をしていて東京まで出ることは少なかったので、他のアニメーターさんたちがどういう形で仕事をされていたのかとかほとんど知らないんですよね。
Q:ダブ時代の後半は佐久間信一さんと一緒によく働いてた。佐久間さんは西村さんの後輩ですか?
西村誠芳:そうですね。ただ年齢的にそんなに変わらないですよね。仕事を始めたのも多分僕と何ヶ月かしか違わないです。彼はその頃高校生でしたね。郡山スタジオに通えるぐらいの場所に彼の実家があって、それで高校の授業が終わってからダブの郡山スタジオ行っては動画をやりみたいなところから始めています。彼は1984年の春に高校を卒業してダブに正式に入ってますけど、多分1983年のもうちょっと前、12月とかその頃には多分もう動画を始めてんじゃないかな。思い出しました。郡山スタジオはその頃に一度あったんですよ。
Q:現場に関して、西村さんの作監回と佐久間さんの作監回は別のところで作られましたか?
西村誠芳:佐久間君はその後にいわきの本社に来ました。なので郡山でやってたのは多分学生の時だけじゃないかな。彼は仙台スタジオができた時に仙台スタジオの責任者としてあっちに行っていました。『ミスター味っ子』の頃ですね。『F91』の時はもういわきだった気がするなぁ。
「実は結構クレジットに嘘が多いです。」
Q:『シティーハンター』の頃から、クレジットを見ると西村さんの名前がどこにも見えます。例えば半分の話数を一人でやってて、その後で『パトレイバー』から同じ話数に原画と作監をやってて、ローテーションのメインになったんですね。どうやって同時にそんなに多くの仕事ができましたか?
西村誠芳:あれはね、実は結構クレジットに嘘が多いです。『Vガンダム』の頃までは割とクレジットちゃんとしてるんですけど、『ライジンオー』以降のクレジットは使い回しなんですよ。『ライジンオー』の時にダブが3パターンのクレジットの使い回しになってるんです。実際に『ライジンオー』の時は三人とも作監はやってます。でもクレジットに出てる人がその回の作監をやっているかというとそうとは限らないんです。作監として西村・佐久間・藁谷の三人の誰かの名前が出てる回というのは基本的にダブのグロス請けの回で、シリーズの最初の頃はキャラ作監は僕、メカ作監は藁谷、佐久間は原画とかレイアウトとかでした。終盤は自分は他作品への参加のために作監は抜けてそのあとは佐久間君がキャラ作監をやっています。でもエンディングでは最初からその三人で作監のローテーションでのクレジットになっています。
Q:わかりました。キャラ作監だったら、メカよりキャラが得意なんですか?
西村誠芳:メカがあまり上手くなかった。(笑)藁谷さんはメカ上手かった。上手いし描く速度も速かったんで、もうちょっと申し訳ないけど藁谷さんにほとんどやってもらいました。『Vガンダム』も、後半は藁谷さんにメカをお願いしているような記憶がありますね。最初の頃は僕がメカまでやってたんですけど、上手くないし遅いし。
Q:1990年代の頃、例えば『パトレイバー』の時、時間的に一つの話数の作画はどれくらいかかりましたか?
西村誠芳:基本的に4週間ですね。原画は4週間です。で多分、作監を含めて5週なんだと思います。でもその最後の5週目をやってる頃は多分もう次の話数が動いてるんです。なので多分4週ぐらいと考えたらいいんじゃないかなぁ。
Q:今のアニメはレイアウトと原画と第二原画はちゃんと分かれていますけど、当時はサンライズの作品はいかがでしたか?二原の話はもうちょっとしましたが。
西村誠芳:基本的には原画は原画で。ただダブとしては結局韓国にスタジオが出来てからはそちらでは二原なので。一原二原というよりはレイアウトと二原と原画みたいな感じの分け方かな。ただ韓国に出すやつに関しては、タイムシートまでつけるんで、今で言う一原です。ただ今の一原みたいなきっちり絵を描いたやつではないのです。今と違ってレイアウトの上がりを作監が見て直すというのも基本的にはなかったです。それはダブでのグロスの回でもなかったし、もうちょっとその後にのそういう作業のやり方が普通になっている時期の『ガンダムW』とか『ガンダムX』の時もそれをやると確実に作業進行が遅くなるんで、社長がサンライズと交渉してそれは無しにしていました。
Q:西村さんとかダブのみんなが同じ話数なのに原画と作監をよく同時にやっていたんですね。自分の絵を直せるはずはないでしょう。
西村誠芳:自分の絵も直しますよ。基本的には直さないはずなのにね。
Q:ええ〜。作業はいかがでしたか?自分の原画を自分で直さないはずなので、例えば佐久間さんに渡ったりとか、そういう流れがあったんでしょうか?
西村誠芳:『ライジンオー』の頃はもう韓国に出しているので、だから僕が直接原画を描くというのはあまりなかったですね。だから僕の原画を佐久間君が修正するというのはほぼなかったと思います。
クレジットで原画で僕の名前が出ててもレイアウトだとか第一原画という感じなのです。とにかく僕はレイアウトを上げて、それにもうちょっとラフを追加したりタイムシートをつけてみたいなのは当時東京スタジオの方でやってもらうことが多かったですね。
そのあと上がってきた二原を作監として自分と佐久間君のどちらが修正を入れるのかはその時の状況次第でしたね。
Q:わかりました。例えば『ダーティペア』とか『シティーハンター』みたいな作品は話数ごとに絵柄が大きく変わりましたね。それは演出さんが作監とか各チームを自由にさせてくれましたか?
西村誠芳:あの頃のサンライズは作監の個性は活かすというのが多かったので、多分その辺は演出さんもあんまり口は出してないと思いますね。ただあの頃はグロスが多かったので、作監さんが上がってきたものに対して自分の絵に直すみたいな形が多かったんじゃないかとは思います。放送を観ていても面白かったですよ。(笑)
Q:ある時から変わりましたか?そんな自由に描けること。
西村誠芳:僕も作監の方がメインになったので、あまりその辺の意識の違いはないんですけど。
Q:今は完全に違いますから。いつ頃変わったのか気になりますね。
西村誠芳:そうですね。それはやっぱり1990年代ですよね。ただ僕は作監をやり始めてから何回かもっとキャラ似せてと怒られました。(笑)
「僕はかっこいい絵が描きたいと思ってたけど、かっこいい絵よりも可愛いとかコミカルな方が得意」
Q:そうですか。では西村さん自身のお仕事に関して、『パトレイバー』のテレビシリーズを作るのは難しそうだと思います。OVAのクオリティが高かったからどうやってテレビでそんな高いクオリティにできましたか?
西村誠芳:いや、同じクオリティにはなってない。(笑)
Q:テレビシリーズとしてクオリティがすごく高いと思いますが。
西村誠芳:とにかく普通の他の仕事と同じでした。ただ違うのは、『パトレイバー』からは僕も作監になったので、それよりも前の原画だけだった頃の仕事とはやっぱり取り組み方は違いますね。その前に僕が作監として勤めたのは『SDガンダム』しかないです。それこそ『パトレイバー』の映画の一本目に一緒に併映やった武者ガンダムのやつですね。あれが僕のちゃんとした初作監です。
Q:キャラクターデザインもやりましたね?
西村誠芳:ああ、そうですね!
Q:『SDガンダム』に戻ると、具体的に何のデザインを担当しましたか?
西村誠芳:出てくるSDガンダム全般と小物関係を随分描いてるんですよ。本当に1、2カットしか出ない電話機とかあの手のやつはかなり設定を描いてます。
Q:SDキャラクターを担当するのはいかがでしたか?
西村誠芳:楽しかったです。割と僕はかっこいい絵が描きたいと思ってたけど、かっこいい絵よりも可愛いとかコミカルな方が得意なんだというのは『ダーティペア』で気がついて、その後に『ダーティペア』の劇場からすぐに『シティーハンター』だったんですよ。『シティーハンター』が思った以上にコミカルな作品だったので、あれでコミカルなやつが楽しいなと思っているところに『SDガンダム』だったのです。二頭身はちょっと難しいなと思いながら描いたみたいなところはありますけど。
ただ自分一人でやるわけじゃないので、ちょうどあの時は山口晋君とか、津幡佳明君とか、彼らがグイグイ伸びてきていたので彼らの描く原画の雰囲気や動きを壊さないように気を付けて直してました。そのまますぐに『パトレイバー』に行きましたからね。気持ちとしては全部自分の絵にしちゃえじゃなくて、良い原画の良いところはもういただいちゃおうみたいな感じです。
『パトレイバー』はとにかくそこまでOVAがあったりとかお手本があるじゃないですか。お手本なのに毎回絵が違うんですけど。(笑)後はゆうきまさみ先生の漫画の方もあったし、高田明美さんのアニメの設定もあるし、これが基準だと思いながら描こうとは思うんですけど。結局あまり似てない。
Q:劇場版はサンライズ作品ではないですが、当時観たのですか?
西村誠芳:見ました。当時、観た後にどうしようかと思いました。『パトレイバー』の映画は7月公開だったと思いますけど、いわきは地方なのでちょっと遅かったんですよ。来たのが遅れてでもやっぱりその時は『パトレイバー』の仕事をやるのがわかってたのもあるし、もちろん自分の『SDガンダム』も併映であるので見に行ったんですけど、『パトレイバー』の方見てどうしようって思って。
Q:『SDガンダム』と『パトレイバー』の後は『エルドランシリーズ』[注10]ですね。『ライジンオー』のオープニングを西村さんが担当されたそうですが。
西村誠芳:『ライジンオー』はエンディングです。
Q:そうなんですか。他の作品もエンディングとかオープニングをやってましたか?
西村誠芳:『ライジンオー』のエンディングとあと『ママは小学四年生』のオープニングは最後の方をちょっとやりました。
Q:そのオープニングは確か富野監督が絵コンテをやったんですよね?
西村誠芳:そうですね。
Q:その噂を聞いたんですけど。
西村誠芳:確かに富野監督の絵コンテで作業しました。
Q:その他の『エンドランシリーズ』のオープニングもやりましたか?
西村誠芳:いいえ、やってないです。
Q:合体シーンとかしましたか?
西村誠芳:いいえ、全然全然。僕はメカが描けませんから。(笑)
Q:そうですね。(笑)『ダイテイオー』はテレビになる予定だったそうですが、結局パイロットフィルムだけが制作されたですね。西村さんは参加する予定ありましたか?
西村誠芳:話が来る前にポシャったんだと思います。だからそんな企画があったことすら知らなかったです。ただ『ゴウザウラー』になると僕もあまり関わっていなくて。
1992年の夏あたりに『ガンバルガー』と並行して関わっていた『ママは小学4年生』の作画監督を降りて『Vガンダム』の方に行きました。
Q:『ゴウザウラー』には西村さんの名前がいつもクレジットに入ってるのに。(笑)
西村誠芳:(笑)だからそこはやってないのに名前が出てたから。
「富野監督はイメージした絵がめちゃくちゃ上手いです」
Q:ちょうど『Vガンダム』の話をしようと思っていました。西村さんは東京の現場にいなかったと言いましたが、富野監督とのやり取りをしましたか?
西村誠芳:『Vガンダム』の時は作画打ち合わせには割と行ってたので、富野監督とのやり取りはしてます。
Q:いかがでしたか?
西村誠芳: (苦笑)
Q: すみません。(笑)
西村誠芳:富野監督の一番覚えてるのは、放送だと二話、あれ制作としては一話なんですけど。
Q:あ、入れ替わりましたの第4話ですね。現場に影響を与えましたか?
西村誠芳:なんか「え、どうすんの?え、どうすんの?」としか思わなくて、放送を見てああこうしたんだと思ってました。でもあれで放送の一話とのつなぎのカットを描き足したような気もするんだけど、ちょっと記憶が曖昧ですね。
Q:放送前にそんなことも知っていましたか?
西村誠芳:もう知ってました。なんか二話になるらしいよと言われて「えー!?」
Q:確かに今見ると何もわからない。
西村誠芳:だって無理やりでしょ?結局一話からガンダムが出なきゃいけないみたいな話になったらしい。
僕も『Vガンダム』を長いこと見返してないからあんまり覚えてないですけど、そういえば一話にゾロというモビルスーツのビームローターが建物に触れて、そこを覆ってるツタを切ってみたいなカットがあるんです。富野監督が作画打ち合わせのその場でそこのラフを描いて「うまっ」と思って、それはものすごく覚えてますね。
Q:富野監督がいつも「自分が描けない」と言ってますがど実はちゃんと描けるんですね。
西村誠芳:描けます。絵として線をまとめたものはそんなに強くはないのかもしれないのですけど動きをイメージした絵はめちゃくちゃ上手いです。
Q:富野監督の絵コンテは情報の量が多いので、アニメーターにとってどう思いますか?撮り方は難しいですか?
西村誠芳:難しいですね。ただ他の監督の作品に比べるとやっぱり難しかったと思いつつ、その要求にちゃんと答えられたかどうかというとあまり答えられなかったんじゃないかなという気持ちはありますね。
あとは、『Vガンダム』で困ったのが最初に全部3コマ打ちでと言われたのです。僕はどっちかというとコマ打ちで動きを詰めるというのがずっと、『ダーティペア』とか『シティーハンター』とかでよくやってたことだったので、オール3コマ打ちとなった時にどう描けばいいのか分からなかった。
Q:逢坂さん[注11]に会ったことありましたか?
西村誠芳:えっとね、『0083』の時に一回だけです。ただ緊張してあまりお話できなかった。
Q:逢坂さんのデザインについて聞かせてください。『Vガンダム』の。
西村誠芳:難しいです。
Q:そうですか。どこが?
西村誠芳:何か、特徴がありそうでないのですよ。ここをこうすれば似せられるというのが掴みづらい。、ものすごく一般受けするタイプのデザインなんだけど逆に癖がない。ただ逢坂さんの絵というのははっきりわかるんですけど、僕にはそれをどこをどう真似すれば、こういう風に描けるかというのが掴めないでずっと苦しんでた。だいたい自分がこうじゃないかと思ったやつは放送で見るとすごい残念な絵にしかなってなかったのです。
Q:『Vガンダム』のローテーションはいろんな強いチームがいましたね。例えば村瀬さんの回があるし、ガイナックスも手を掛けました。
西村誠芳:葦プロの回もあります。
Q:そうですね。当時は意識してたのか?
西村誠芳:やっぱり意識はするけど、ただどっちかというと「みんな上手いなあ。」で、もうね「俺なんでこんなに描けないんだろう。」と思ってそんな気持ちの方が強かった。もう『ガリアン』とか『レイズナー』の頃の「クソーックソーッ」に比べるともうちょっとしょんぼりした感じで。
Q:西村さんの『Vガンダム』の話数もすごく良かったが。
西村誠芳:ありがとうございます。
Q:『Vガンダム』の一番気に入ってるカットとかシーンとかありますか?
西村誠芳:実は『Vガンダム』は自分では後悔しかなくて、ただ10話台ぐらいで、気に入ってるとかなんとかじゃないんですけど、作画打ち合わせに行くと「またシュラク隊の死ぬ話ですか?」というのが何回かあって「またシュラク隊死ぬんですか!?」という。(笑)
Q:(笑)スタッフもそれで落ち込んだのか?
西村誠芳:そうかな。で、気に入ってるというのとはちょっと違うんですけど、30何話だろう、バイク戦艦の出る回。作監打ち合わせの時に絵コンテ読み終わって「ちょっと今回の話僕好きです。」と言った記憶はありますね。
Q:そんなことよくありましたか?話が好きになること。
西村誠芳:ありますよ、あります。
「『Gガンダム』の絵コンテを読みながら笑ってました。」
Q:最近のFebriのインタビューで山本裕介さん[注12]が富野監督の作品で、アニメの普通の表現とパターンは禁止だったと言いましたけど、西村さんの方はどうだったんですか?
西村誠芳:言われなかったことは気にしないでやってました。それをジャッジするのは演出さんなんです。僕は所謂漫画的表現、オーバー的な表現が好きなので、そういう意味では多分『Vガンダム』には向いてなかったなぁとは思いますね。
Q:漫画的な表現でしたら、『エルドランシリーズ』みたいな子供向けのアニメの方が好きですか?
西村誠芳:そうですね、うん。あっちの方が僕としてはやりやすかった。それで思い出したのが『Vガンダム』でハロがポンポン跳ねるじゃないですか。あれで一番デフォルメさせてたの僕だったんですよ。それは放送がかなり進んでから気がつきました。あれ?もしかしてこんなにデフォルメしてんの俺だけ?みたいな。
Q:で、『Vガンダム』の後はやっぱり『Gガンダム』ですが、『Gガンダム』は富野さんが監督の役割を務めない『ガンダム』のテレビシリーズで、ちょっと変わっているシリーズだと思います。スタッフにとってその歴史的な展開はどう受けられましたか?
西村誠芳:結局絵コンテで何を表現しなきゃいけないかみたいなところから入って、これはちょっとシリアスめの方が良いんだろうな、これはちょっとコミカルめの方が良いんだろうみたいな判断をするんですよね。『Gガンダム』は特にキャラクター原案として島本和彦先生[注13]が関わられていたのもあるので、僕は島本先生がすごい好きだし、ずっと読んでたので、これはあまりシリアスな方じゃなくて良いんだなぐらいのつもりで入りました。
ただやっぱり僕は作監としてすごく問題なのがキャラクターに慣れるのに時間がかかるんですよ。大体三ヶ月とか描き続けないと自分の中でキャラが掴めないみたいなところがあります。なので入り口がいつもしんどいなあということがあります。でも『Gガンダム』はこれまでの『ガンダム』とは違うんだなって思いながら、あと絵コンテ読みながら笑ってました。
Q:いいですね。で、今川監督とやり取りをする機会はありましたか?
西村誠芳:今川監督と実は一度もお会いしたことないんですよ。『Gガンダム』の頃から僕はあまりサンライズに直接打ち合わせに行かなくなったんですね。とにかくその時間も黙々と修正してるのです。いわきの本社からサンライズまで打ち合わせに行くと丸々一日かかっちゃいますからね。
Q:でも『ガンダムX』の時にもサンライズまで行ったでしょう?
西村誠芳:行ってないです。『W』も行ってないです。だけど『W』も『X』も一話の作打ちは演出さんと制作さんがダブまで来ました。なので一番最初はちゃんと顔合わせはしてます。
「ティファは奇跡的にうまくいった設定」
Q:どんな流れで『ガンダムX』のキャラクターデザインを担当になったんですか?
西村誠芳:結局『ガンダムW』の時にほとんどダブでやるっていう形になりました。最初の頃は他の作監さん…重田さんとか菱沼さんとか入られていたんですが。
Q:『X』はほとんど全部がダブが作ったんですね。
西村誠芳:これはあくまで僕が聞いた話なんですけど、結局『ガンダムW』の時は途中からだんだん絵コンテが遅れ、でそれに伴ってキャラ設定も遅れました。この状況だったらダブの方でキャラデザまでやってもらったらもっと…
Q:効率的になれるでしょう。
西村誠芳:そうですね。別の言い方を使うならキャラの設定が遅れないようにダブの中で管理させようみたいな考えもあったんじゃないかと思うんです。オーディションも何もなくて、サンライズの方から西村指名だったのかな。一応社長からはもう最初から「西村君やって」って言われました。
Q:普段は『X』の前にキャラクターデザインのオーディションはありましたか?
西村誠芳:ありますよね。だから『Vガンダム』の時もコンペがあって僕も出しました。
Q:その設定画が見たいね〜。
西村誠芳:いや、僕も何かどんなの描いたか覚えてないし、もちろん手元にコピーも何もない。
Q:実は西村さんの『X』のデザインは、特にティファ、ちょっと村瀬さんの『W』のキャラクターに似ていると思いますが。
西村誠芳:やっぱり『W』を一年間やったので『W』のキャラの影響がめちゃくちゃ残ってますね。
Q:そうですね。それは村瀬さんにも通じて安彦さんっぽい描き方ありますよね。特に目の描き方とか。
西村誠芳:結局何やってもそうなんですけど、いいと思ったところは取り入れていこうと思うところがあると、人様のいいところを取っていかないと自分の中から出てくるものは大したことないので、そういうのを取り入れながらアウトプットしていきます。ただ僕が描く以上その人の絵そっくりにはならない。『W』だって放送されたやつと村瀬さんの設定とは大幅に違いますからね。
Q:そうですか。多分一番難しい質問ですが、『X』の一番気に入ってるキャラクターありますか?
西村誠芳:ティファですよ。
Q:やっぱりね。
西村誠芳:ただあのキャラもね、どこにも特徴がないと思うんですよ。ただ最終的に出来上がったものはなんとなく個性的なキャラになってるけど。そういう意味では割と奇跡的にうまくいった設定なのかなとは思いますね。『X』の時はとにかく線少なくして作画の負担減らそう、作画の負担減らそうと言うと偉そうだけど僕が苦労したくない。(笑)
Q:『W』は女性ファンにすごく人気になったんですが、『ガンダムX』も女性ファンに向ける意識があったんですか?
西村誠芳:なかったとはいうことはないですね。やっぱりあのフロスト兄弟とか、なんとなく女性に受けそうなというよりも、あの辺りはちょっとかなり『W』引きずってる感じです。
Q:さっき言った通り『ガンダムX』の作画のほとんど全部はダブがやったと思いますが、それは大変だったでしょう?
西村誠芳:その話をするとちょっと『W』の話にちょっと戻っていいですか。『W』は最初の頃は本当にダブで一本やってる回が多かったんですけど、『W』が結局監督が降板とかあるじゃないですか。最近はもう公になってますよね。それでスケジュールがボロボロになって一話あたりの原画のスケジュールが二週ぐらいしか取れなくなっちゃったんですよ。その頃からダブで三分の二、残り三分の一をサンライズの方でフリーの人たちにやってもらうという体制になって、そのまんまの流れで『X』に行ってました。『X』は多分ダブで一本やった回が多分無くて、ただ基本的には毎回三分の一ぐらいはサンライズがフリーの方々にお願いしてやってもらって作っていたという感じです。
Q:『X』の一番気に入ってるシーンとかエピソードは?
西村誠芳:いっぱいありますね。『X』に関しては相当いっぱいありますね。でもどこだろうでもやっぱり後半かなぁ。後半はやっぱりいろいろありますね。
Q:世界観とかストーリー構成は手を入れたんですか?
西村誠芳:『X』の時は多分準備段階で全体を構成する時間がなかったんじゃないかと思います。とにかく絵コンテが送られてきて、ああこうなるんだこうなるんだ、と。一番最初に結局企画書があって、その企画書を見て設定を描くわけじゃないですか。で、だいたい企画書からこんな感じだろうなと思ったところから、それをベースに絵コンテを見て、僕はこう思ってたけど、もうちょっとこうなんだとか、そういうのをどんどん修正しながら映像にしていくのですね。
記憶に残っているという意味と一話でガンダムと会うところがあるじゃないですか。で、あのティファがこう指差して倒れて。あの辺りが重田敦司さんの原画なんですよ。でね、重田敦司さんの原画を見た瞬間にティファの描き方が設定から変わっちゃったんですよ。「あ、重田さんのいい!真似しよう。」としました。なのでそういう意味ではそこが一番印象深いかもしれない。
人によって違うと思いますけど、僕は設定というのは中間地点だと思うんです。で、作監をやってると最初の設定から先をもうちょっとこうかな?違うかな?という感じで探って行くんです。他の作品でもありますけどキャラデザをがやった人が作監をにやってると明らかにシリーズの途中から設定の絵から離れていく作品があるんですよ。
「1990年代ぐらいからだんだん作監の個性というのが許されなくなってき。」
Q:1990年代に、サンライズ作品の絵柄と描き方はちょっと変わったと思います。ある時から影無しの絵があったんですね。それはどうしてこうなったんですか?
西村誠芳:はっきりとはわからないんですけど、ただ『Vガンダム』の時にチラッと聞いた話はあります。その前の『0083』でセルの仕上げさんたちに嫌われたらしいです。『0083』で影を細かく塗り分けをやりすぎたとかいろんなことをやりすぎてしまって『ガンダム』と言うだけで仕上げさんから「うちはやりません。」と。「今回は影無しでやりますから大丈夫です。」みたいな言い訳のために影無しになったという話を聞きました。もう一つには、富野さんがやっぱり影で誤魔化すのがあまり好きじゃないという話も聞いてはいるんだけど、もしかしたら両方なのかもしれない。でも、影で誤魔化さないと僕の力ではしんどいんですよ。
Q:村瀬さんは影をよくつけたが。
西村誠芳:そうみたいですね。そうだから『Vガンダム』の影付けるか、付けないかも、いろいろあるんですよ。最初は本当に一話あたりでの影付きのカットは20カットと決められていた。最初から絵コンテの段階で指定があったんですよ。「このカット影付け、このカット影付け」と。特にガンダムは白くて、トレーラーで運んでいくじゃないですか。そうするとあそこの上で手前に人が立ってると後ろに真っ白なベタ塗りが入ってくるんですよ。さすがにこれはきついでしょうと言ってそこからガンダムの止めの時は影を付けるという話が出てきて、そのうちコクピットの中は影を付けるとかいろんな話が出てきました。他の回を見て影付いてるけど、僕は影を付けていいと言われてないからずっと影を付けないで抵抗してました。で、ずっと影を付けずにいたら、「すいません影を付けてください」と言われるようになって、それはすごく覚えてますね。だってそこまで聞いてないもんそんな話。
あと『ライジンオー』の場合は特にキャラもシンプルなので多分それに合わせた感じで。多分こってりした影が付けられたらちょっと違和感があるんで、影無しということになったんだと思います。
で、『ライジンオー』は後でOVAが作られるあるんじゃないですか。OVAはさすがに商品として売るやつだから影付けましょうと言われました。でも影の付け方がすごい控えめなんで実は誰にも結構気づかれてない。いい意味でテレビシリーズと違和感がないんです。
Q:その影無しのこともあるし、エフェクトも変わりましたね?1980年代の『ダーティペア』とか『シティーハンター』を見ると金田さんとか板野さんの影響が強く感じられると思いますが。
西村誠芳:ありますね。派手な奴をね。
Q:エフェクトと言えば、当時の大事な作品の中はもちろん『0083』もあるんですが、その前には『0080: ポケットの中の戦争』ですね。磯さんの作画からサンライズやダブに磯ショックを与えたんですか?
西村誠芳:すげーとは思いました。めちゃくちゃすげーとは思ったけど、もうどうしていいのかわからないので、ショックを受けつつスッと流したみたいな感じでした。でもやっぱり僕よりも若い榎本君とかはすごく磯さんとかうつのみやさんとかの影響を受けた原画を上げてきていました。
Q:最後の質問になりますが、結局どんな流れでダブを辞めたんですか?
西村誠芳:もうまさしく今そういう風になってるんだけどあの1990年代ぐらいからだんだん作監の個性というのが許されなくなってきていたじゃないですか。で何となく今後はいろいろ厳しくなりそうだなというのと、自分としてもそれに合わせていけるほどの力はもうないと感じていたのもありました。後、ダブとしてやってる量産しなきゃいけないという体制に対して自分の中でどうしても馴染めないところがありました。やっぱり基本は一アニメーター、一原画家でやりたくて、それを殺してずっと作監をやって数を上げる量を上げてまとめるという仕事をやってたんだけど、それがしんどくなってきちゃった。
もう一つは『ジュラシック・パーク』なんですよね。『ジュラシック・パーク』でCGがバッてクローズアップされるじゃないですか。そのCGはデジタルで作ってるものではあるんだけど、そこにフィル・ティペットという人が関わっているわけじゃないですか。フィル・ティペットの仕事は大好きだったので、アニメーターが3Dと2Dの違いはあるんだけど、要するにアニメーターとしての基礎というのがそういう風なところに活かされるんだなと思ってて、ちょっとCGの方に興味が湧いていました。その時期もプレステが出てきて、ムービーが使えるようになって、CGを売りにしたゲームがいっぱい出てきて、雑誌に載ってるCGを見るとああと思うんだけど、見るとモーションがちょっとねというのが多かったんですよ。それでゲームとして遊んでた中ですごく好きだった中に『ポリスノーツ』があって。で、ゲームでもこんなにドラマチックなものできるんだ。あれアニメも使ってるし、こんなにドラマチックである意味アニメに近い。「そういう風なものがあるんだな」と思ってたら、その『ポリスノーツ』を作った小島さんという人が3DCGを使ったゲームを作るためにアニメーターを募集していたんです。ニュータイプにそういう広告が載ったんですよ。でそれを見て、なんかこっちちょっと行ってみるのもいいのかなと思って、応募しました。それがきっかけですね。でもそのニュータイプの広告で引っかかったアニメーターは僕だけだったという話は後から聞きました。
Q:そうですか。コナミではなかったが、当時は多くのアニメーターがゲームの方に行っちゃったんですよね。
西村誠芳:翌年スクエアですね。
Q:そうですね。その理由はいつでも気になったんですね。給料が良かったと聞いたんですが。
西村誠芳:それは大きかったと思います。特に上手い人たちは。僕はもうとにかくそういう一カット一カットに粘るんじゃなくて、とにかく数をあげるという風な会社の方針の中でやってたけど、ああいう人たちは多分フリーで一カット何千円の単価なのにそのワンカットに何日もとか一週間とか下手すりゃ半月とかかけながらやって、てそりゃ食えるわけないじゃないですか。でもそういう人たちの技術に対してちゃんとお金払いますよというところがあったらそうなりますよね。
Q:そうですね。じゃ、今度は上妻さんに聞きます。
西村誠芳:(笑)上妻さんいいですね。上妻さんの話を僕も聞きたいです。
脚注
1.『 超時空要塞マクロス』 1982年~1983年 TVシリーズ、石黒昇監督、アートランドとタツノコプロダクション作品。 80年代の最も有名なロボットシリーズの1つで、板野一郎などのアニメーターによる印象的なメカアニメーションで知られています。コミカルでパロディなシリーズであり、オタク文化の発展に大きな役割を果たしました。
2. 長浜ロマンロボシリーズ。1976 年から 1979 年まで放送された、長浜忠夫監督による連続3つのロボットシリーズ (『超電磁ロボ コン・バトラー V』、『超電磁マシーン ボルテス V』、『闘翔ダイモス』) に付けられた名前。これらは、ドラマの激しさと共感できる悪役で有名です。
3. 古泉浩司(こいずみ・こうじ、1960-1988)。 アニメーター。 スタジオダヴの最も重要なメンバーの1人であり、事故で夭折した。80年代の最も有望なメカアニメーターの1人でもあります。最も有名な作品には、『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』の最後の決闘や、『ファイブスター物語』のザ・ナイト・オブ・ゴールドの覚醒などであります。
4.『 機動戦士ガンダムF91』。 1991年の映画、 富野由悠季監督、サンライズ作品。 ガンダムシリーズの宇宙世紀というタイムラインを再開するはずだった映画が、商業的には失敗に終わった。 制作の難しさとプロットの混乱した性質は今でも有名です。
5. 村瀬修功 (むらせ・しゅうこう、1964年生)。アニメーター、キャラクターデザイナー、監督。80年代後半から 90 年代前半にかけてサンライズで活躍した最も有望なアニメーターの1人であり、『ガンダム W』のキャラクター デザイナー、『エルゴプラクシー』と『機動戦士ガンダム 閃光のハサウェイ』の監督としても知られています。
6. 塩山紀生 (しおやま・のりお、1940-2017)。アニメーター、キャラクターデザイナー。70年代から80年代にかけてサンライズで働いた最も重要なアニメーターの1人。 彼は『ダグラム』『ボトムズ』『ガリアン』のキャラクターデザイナーとして高橋良輔監督と親しく協力してきた。
7. 土器手司 (どきて・つかさ、1960年生)。アニメーター、キャラクターデザイナー。80年代後半を代表するアニメーターで、『ダーティペア』のキャラクター デザイナーとして最も有名です。 安彦良和を尊敬していることでも有名。
8. 安彦良和(やすひこ・よしかず、1947年生)アニメーター、イラストレーター、漫画家、監督、キャラクターデザイナー。 『機動戦士ガンダム』のキャラクターデザイナー、作画監督として知られる。才能のあるアニメーターでもあり、1970 年代にリアルなキャラクターの演技の黄金基準を打ち立てました。 現在も漫画家、映画監督として活動中。
9. 湖川友謙 (こがわ・とものり、1950年生)。アニメーター、キャラクターデザイナー。富野由悠季監督とのコンビで、『伝説巨神イデオン』『戦闘メカザブングル』『聖戦士ダンバイン』のキャラクターデザインで特に知られる。そのユニークなデザインと解剖学へのこだわりは、1980年代初頭におけるリアルアニメーションの先駆者の一人となった。
10. エルドランシリーズ。サンライズが1991年から1994年にかけて制作・放送したロボットアニメ三部作の総称。TVアニメ作品は『絶対無敵ライジンオー』、『元気爆発ガンバルガー』、『熱血最強ゴウザウラー』。
11. 逢坂浩司 (おうさか・ひろし、1963-2007)。アニメーター、キャラクターデザイナー。 スタジオアニメアール出身のアニメーターで、後にスタジオボーンズの設立メンバーの一人となる。 『Vガンダム』、『Gガンダム』のキャラクターデザイナーを務めた。
12. 山本裕典 (1966年生)。監督。元サンライズ演出や監督で『Vガンダム』などを手掛けた。 以来、『ヤマノススメ』シリーズの監督として一躍有名となる。
13. 島本和彦 (1961年生)。漫画家。80年代半ばから活躍する著名な漫画家。 現在では、自伝的漫画『アオイホノオ』が特に有名である。
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